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『憐れみの3章』観たよ

アカデミー賞にノミネートされまくった『哀れなるものたち』のヨルゴス・ランティモスがもともとギリシャで組んでいた脚本家と再び組んで撮った3つの短編のオムニバス映画。それぞれ役者は共通しているけど基本的には別々の3つの物語が楽しめる。

『籠の中の乙女』で一躍その名を馳せたランティモスだけどフィルモグラフィを通して描いているテーマは割と共通していて、人間って意外と社会から簡単に排除されるしそうならないように注意深く生きたとてそうそう同じ場所にはいられないよーっていうこと。それをイヤ~でへんてこなモチーフだったり動きだったり生々しい感じのショットで描いてくのがどうやら好きっぽい。観客を楽しませたりワクワクさせたいがための映画ではなく、でもふつうに生きているだけでは見えない現実の側面を「いやこうだよね」と示す映画を撮っている人というイメージ。それまでとは別の脚本家と組んだ『女王陛下のお気に入り』『哀れなるものたち』ではかなり表現はマイルドになってたけど、今回はもともと組んでいた脚本家が戻ってきてもう、すごい。3章構成の2章目で後ろの席の人が帰っちゃったけど私は「やむなし」と思った。時にはイヤ~な気持ちになるのも映画だろとランティモスはきっと思っているだろうけど最近の映画はわりとそうじゃないというか、そういうものを求めて映画館に来ているわけじゃない人は多いので。

それぞれ、なんかすげー権力者の言うことだけ聞いて生きている男性の話、行方不明の妻とその夫の話、水系カルト共同体に所属して蘇りの力を持つ人物を探す女性の話という感じ。メインの男性はジェシー・プレモンス、メインの女性はエマ・ストーン。3章構成で視点人物が徐々に反転していくような感じ。それぞれの物語の中心で父権的に振る舞うのはウィレム・デフォー、という俳優による補助線もなんとなく見える。ウィレム・デフォーは『哀れなるものたち』でも父親的な役割だった。

最初のエピソードは何を言っているかかなりわかりやすく、イサクの燔祭(アブラハムが神に命じられて息子のイサクを生贄にしようとした話)にあるような神の理不尽のエピソードの現代版だろう。もちろん現代でそんなことしたら自分の子供を殺すなんてそんなあほなって感じだが、自分の生活すべてを支える何かと直結しているものに報いるためならそういうことはけっこうみんなしている。本当の意味でたったひとりの孤独な存在になるのはあまりにも怖いから、このエピソードのジェシー・プレモンスは人殺しだってしてみせる。
その補助線を持ったままほかのエピソードを見ると、要求‐応答によってどうやら人間は互いの関係性を確かめてるらしいことがわかる。帰ってきた妻が本当に妻かわからない夫は彼女に体の一部を差し出すことを要求し、カルトのトップは信者に汚れのない肉体を要求する。ときにそのルールを破り、応答なきままに相手に要求を通そうとする人物が現れる。最後のエピソードのエマ・ストーンの夫がそれで、もう最悪だ。あんな奴に娘を預けていてはだめだ。かつてはふたりのセックスにきちんと要求‐応答の図式が成立していたんだろう。しかし二人の関係性が壊れてしまっているので、もう駄目なのだ。

互いが互いを監視して、お前の指を捧げろと試してくる。それって神にずっと見張られていた古代の世界と何も変わらない。神を信じていなくったって、神の論理に支配されているのと変わらない世界で私たちは生きている。


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