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『フェラーリ』観たよ

アダム・ドライバーが実在の名門ブランドの当主を演じるということでほぼ『ハウス・オブ・グッチ』の気持ちで見ていたが、結構似たところはあった気がする。テーブルの上でセックスしたりとか、そのへん。みんな大好きスーパースポーツかっこいいカーメーカーのフェラーリの創始者エンツォ・フェラーリの1957年のあれこれを描いた映画なのだけれど、物語の中心は倒産寸前でピンチなフェラーリをレースで優勝して一発逆転経営立て直しのお仕事苦労パートと、奥さんではない女性と子どもを作って二重生活をするご家庭ごたごたパートの二つの軸がある。奥さんは共同経営者で会社の株式とかも持っているので、怒らせると会社の経営にも影響が出てエンツォはヒヤヒヤする。
のだけど、割りとドラマ部分はどっちつかずな印象で、アダム・ドライバー演じるエンツォの輪郭が最後まであんまりはっきりしないのが気になる。『ハウス・オブ・グッチ』のアダム・ドライバーはぼやぼやしててもいいけどこの映画の中心はエンツォなので……。エンツォの妻を演じるペネロペ・クルスのキャラクターの方がしっかりしていて言っていることも「え~奥さんかわいそう~~」みたいな気持ちになりがちなので余計に。この時代の自動車レースは命がけなのよ、という視点も出てくるけれど、エンツォにとってはその命がけの時間は過去のことで、映画の中で命を懸けるのは現役ドライバーなので、その点でもちょっと散漫な印象を受ける。

ただ、映画が言いたいことはなんとなくわかる。エンツォは息子の前で車の設計をする。パイプの形がくねっていると燃料がスムーズに中を通っていかないので真っすぐにしていくよ、という話をエンツォはする。それは、より高みを目指すためにいかにうまく対象をデザインするかという話で、車のデザインのみならず「会社経営」「家族関係」どちらにも当てはまる。フェラーリを一代で築き上げたのだから当然と言えば当然なのだがエンツォはめちゃくちゃエネルギーのある人で、でも会社も家庭も全然思い通りにいっていない。目指すものは目指すものとしてきちんと成し遂げているうちに、手元にあるものがどんどんスケールアップしていって全然自分のコントロールできないものたちに今度は自分が翻弄されていく。マジでコントロールできるのは自分だけなのでマスコミ対応とかはできるけど、フェラーリ規模のブランドにとってはそれがなんぼのもんじゃいなのだ。そして無理し続けたエンツォのコントロールはとんでもない形で破綻する。だからこの映画でも、最終的にはエンツォが「何を妥協するか」「何をあきらめてきたか」がいちばんはっきりと浮かび上がる。そして、自分の人生の部品だと思っていたものたちの力に、エンツォは納得する。それは映画というコントロール不可能なものと向き合い続けてきたマイケル・マン監督の実感とも重なるものなんだろうな、ということはわかる。

全然余談なのだが、この映画を見て私はつくづくかっこいい車というものに興味がない、というかむしろちょっと嫌いなんだなあと気づかされる。やっぱり数百キログラムもある鉄の塊が百キロメートル超のスピードで走っているという事実がめちゃくちゃおっかなく、速く走る車の機能美みたいなものは本当にわからず、だからミッレ・ミリアで沿道にお客さんがいっぱい集まってるのもただただ怖かった。『グランツーリスモ』の映画もそうだったけど、カーレースの安全性の歴史というものがちょっと気になってきた。


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