南方熊楠、牛王符を焼いて飲み干す事(小説・十二支考②)
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「予は熊野牛王の外の牛王を見たことないゆえ、何とも言えぬが、熊野の牛王は幼時たびたび見もすれば、小学校で紛失品あるごとに牛王を呑ますと威されたので、その概略の容体を覚えおる。烏を何羽点じあったか記憶せぬが、まずは『和漢三才図会』に書いた通りのものだった。盗人などを検出するには、これを焼いて灰とし水で服むと、熊野の社におる烏が焼いた数だけ死ぬ。その罰が有罪の本人に中って、即座に血を吐くとか聞いた。血を吐くのが怖くて、牛王を呑ますと言うと、呑むどころか牛王の影をも見ぬうち既く罪人が自白するを常とした。」(南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」より抜粋)
南方先生は和尚に怒られてばかりでしたね。
そういえば、あれも冬の時分のことです。南方先生の元へご近所さんが怒鳴り込んできたことがありました。ご近所さんの飼っていた鶏を先生が盗んだというのです。
というのも、ご近所さんのお宅から鶏が数羽消えており、ご近所さんのお庭をウロウロされていた南方先生が疑われたのでした。たしかに、先生は植物採集のために付近の山々を歩き回っておられ、時には夢中になり過ぎて、他人の家の庭にまで入り込んでしまうこともありました。
定職にも付かずわけの分からない研究をしている先生に不信感を持っていたご近所さんが、「あの南方熊楠の仕業に違いない」と思われても仕方のない状況でした。
癇癪持ちの先生のことですから、泥棒扱いされて黙っているはずがありません。お二人は怒鳴り合いの喧嘩となりました。和尚さんが留守にしていたので、私が間に入って止めようとしたのですが、小柄な私ではまるで役に立ちません。
そうした最中、ご近所さんが先生に言い放ったのです。「そんなに言うなら牛王でも呑んでみろ!」と。売り言葉に買い言葉、先生も負けてはいません。「牛王だぁ? そんなもん何枚でも呑んでやらぁ!」
まだこちらに来たばかりのころでしたから、私は牛王というものが分かりませんでした。
南方先生にお伺いしたところ「インドでは牡牛が裁判の標識とされてきたそうだが、我が国でも盗人を裁くときに頼りになるのは牛の力でな、熊野三山に祀られている牛の王様・牛王の神札を焼いて呑むと、牛王の使いの烏が焼かれた数だけ死に、烏殺しの罰が神札を焼いた者ではなく盗人を働いた者に下るとされているのだ」とおっしゃいました。
つまり、ご近所さんは、本当に先生が犯人でないなら、牛王の符を飲むことができるだろうと挑発され、先生はそれを買われたのでした。
南方先生に言われて、村中の方々に声を掛けたところ、日の傾くころには大量の牛王符と野次馬が当寺に集まっていました。
「ようし、これからこの札を全て焼いて呑む!よう観ておけ!」
そう言うと先生は、茶碗一杯はあろうかという灰を水に溶かしこみ、えいやっと一呑みにされました。
私は先生のお身体が心配になりましたが、村の衆は先生の呑みっぷりに大盛り上がりで、皆「あっぱれ」と声を掛けていました。ただし、例のご近所さんだけは深刻な顔で「あんたが血反吐を吐くのを楽しみにしている」と言って帰られました。
その夜のこと、南方先生の部屋の戸を叩く者があります。先生が起き上がると、戸はひとりでに開いて外から一羽の烏が入ってきました。
「私は熊野牛王の使いの者。このたびはその方に頼みがあって参った。夕刻ごろその方が呑みし牛王の符、すべて吐き出しては貰えぬか」
これは有名な話ですが、先生は胃の中のものを自在に吐き出すことができるという特技を持っていました。怒ると嘔吐物を吐き掛けるので、子どものころ喧嘩では負け無しだったそうです。
「ふん、神の使いといえど、命が惜しくなったものと見える。わしは一度決めたことは変えん」
「そうではない。事情を聞けば気も変わろう。あの鶏泥棒、犯人はあの家の幼い息子なのだ。悪戯に鶏小屋で遊んでいて、誤って逃してしまったものを、言い出せなくなったのだ」
「それなら、人に罪をかぶせる前に白状するが筋だろう」先生も強情な方でしたから、一度言い出した手前、引き返せなくなっていました。
「しかし、このままではあの子に罰がくだる。しかも、その方が何十枚も札を呑んでしまったせいで、そうなってはただでは済まぬ」
「知らん!」
「ええい、強情ものめ!」
そう言うと烏は頭から勢いよく先生の腹にぶつかりました。先生も無理をして呑み込んでいたのか、その衝撃に耐えかねて腹の中のものを、これまた勢いよく吐き出しました。
さて、牛王符を吐き出させたところまではよかったのですが、この烏、先生の嘔吐物を頭から被ってしまったのでたまりません。
「ぎゃあっ!」
前後不覚となって嘔吐物塗れで部屋の中を飛び回りました。「この野郎!」腹に一発入れられた先生も、顔を真っ赤にしてこれを追い回します。「わはははは、反芻は貴様の主人だけの特技じゃないぞ、それ!」そう叫ぶと、先生は腹の中のものを烏に向かって浴びせ掛けます。
烏は部屋の壁という壁にぶつかりながら飛び回る、先生はそれを追いかけながらぺっぺと嘔吐物を吐き掛ける。この世の地獄です。
そのうち、ようやく出口を見つけた烏は這々の体で出ていきましたが、ひとりでに閉まった戸に先生は頭からぶちあたり、ごてん、と大の字に倒れてしまわれました。ええ、翌朝その部屋の様を見つけた私の絶望をご想像いただきたいものです。
翌日、ご近所さんが息子さんを連れて謝罪に来られました。前日の夜に息子さんが自ら罪を告白したようです。また癇癪を起こされるのではと私は戦々恐々の心持ちでしたが、南方先生は青い顔で息子さんにボソッと「わしもゲロって、君もゲロった。是即ち貰いゲロ也」と言って、へらへらされるばかりでした。さすがの先生も体調を崩されていたのです。
ご近所さんはお詫びにステーキ用の牛肉を置いて帰られましたが、食べ物を見るのも嫌なのか、それとも牛というものに懲りたのか、先生は黙って私にそれを渡すと部屋に戻られてしまいました。
え、そのときのお肉ですか? もったいないので和尚と私で頂戴しました。後にも先にもあんなに美味しいお肉を食べたのはあのときばかりです。はあ、精進ですか。……あ、そうでした、そうでした。あのお肉は檀家さんに差し上げたんでした。私としたことが、とんだ勘違いをしておりました。もう歳ですな。ははははは。
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