読書感想文(68)J.K.ローリング作、松岡佑子訳『ハリーポッターと不死鳥の騎士団 5-Ⅲ』
はじめに
こんにちは、笛の人です。
読んでくださってありがとうございます。
「不死鳥の騎士団」の3巻目です。
感想
少しずつ、良い方に向かってきました。
特にフレッドとジョージによる花火のいたずらはやっぱりスカッとしました。
ハーマイオニーすらそちらに乗っかったのを見て思わずにやけました。
自分を管理する立場の人間がゴミクズであるという状況は、現実においてもあり得ることだと思います。
そういう時、どのタイミングで反旗を翻すかはなかなか難しいです。まず、勇気がいることでもあります。そういう点で、私はフレッドとジョージをとても尊敬します。彼らは自分達が我慢ならなかったからなのでしょうけど笑。
でもそれが双子で、二人いるっていうのもいいなと思います。こういう信頼関係みたいなものに私は憧れがあるのだと思います。
また、今回は「聖マンゴ魔法疾患障害病院」の描写も印象的でした。
ネビルの親は誇るべき立派な魔法使いですが、ネビルは友人に親を見せたくないという複雑な心境です。
こういったことは現実でもあるのだろうかと、ふと思いました。
何か精神疾患のようなものを身内が患っていると隠したくなるものでしょうか。
ただ、精神疾患に限らず、自分の身内を他人に紹介したくないという風に考えると、何となく理解できました。
精神疾患に関してもその点は同じでしょうか。でも精神疾患を持つ身内を恥じるべき理由がないことは明らかだと思います。
その違いは本人がどうにかできる範囲かどうかという点でしょうか。例えば嘘つきは本人の心がけ次第ですが、精神疾患はそうはいきません。
しかしこれをもう少し深堀りすると、嘘つきかどうかも周りの環境に左右されますから、他の理由も同じことになり得ます。
絶対的なものはないので、個人毎の捉え方次第だとは思いますが、広い視野と心を持ちたいものです。
では何故ネビルは隠したがるのかを考えると、周りの人に馬鹿にされるのが嫌だから、でしょうか(例えばマルフォイのように)。
馬鹿にされ得ること自体がおかしいのですから、根本的に解決するには馬鹿にする人の考えを改めさせる必要があります。
ただ、馬鹿にされないようにするという点について言えば、隠すことでも親を守ることができます。
祖母はネビルを咎めましたが、彼は彼なりに母を守ろうとしているのでしょうか。
また、話がずれますが、いわゆる「障害者」との関わりについても少し考えました。
そもそも「障害者」という呼び方がどうなんだという考え方もわかるのですが、今回は内容をわかりやすくするために「障害者」という言葉を使うことをお許しください。
私は目の見えない方と関わることがしばしばあります(そういう時、身内の方が恥じている様子は全く無いように思われます)。
「障害者」というと弱者であるような印象がまだまだあるように思われます。
確かに「障害者」は何かしら支援が必要な場合があります。しかし、それはいわゆる「健常者」も同じです。
この辺りはまだまだ勉強不足なのですが、国立民族学博物館の広瀬浩二郎さんの考え方が私にとって大きいです。
広瀬さんは現在全盲の方ですが、「健常者」ではなく「見常者」、「視覚障害者」ではなく「触常者」という呼称を提案しています。
みんな得意なこと、苦手なことがあるだけなのです。最近パラリンピックがあったので、この点はわかりやすいのではないでしょうか。
その上で、私自身は「障害者」とどのように接するべきなのかというのは今まであまり明確に考えてきませんでした。
今書いてみて思いついたのは、「お年寄りに席を譲るのと同じじゃないか」というものです。お年寄りに席を譲るのは、人助け・手助けですよね。
目が見えない方に、例えば手すりの場所を教えたりするのはそれと同じではないかと思います。
困っているから助ける、それだけです。
もちろん人によっては迷惑かもしれないので、その時はその時です。
とはいえ、やはり潜在意識というのはあるので、咄嗟に助けて「あげなきゃ」と思ってしまうこともあるかもしれません。
とりあえず言語化できたので、それを意識して、失礼のないように色んな人と接することができるようになりたいです。
おわりに
話が逸れたまま思ったより長く書いてしまいました。
でもこれも本を読んだおかげで考えたことですし、大事なことだと思うので書き残しておきます。
次はついに「不死鳥の騎士団」の最終巻です。
大まかな結末は覚えているので少し辛い気持ちもありますが、読み進めていきます。
というわけで、最後まで読んでくださってありがとうございました。