読書感想文(75)辻村深月『凍りのくじら』

はじめに

こんにちは、笛の人です。
読んでくださってありがとうございます。

今回は友人のオススメです。
この友人はいつも深いテーマを持った作品をオススメしてくれるので、ちょっと身構えて読みました笑。

今回は『マチネの終わりに』の感想文ばりに長くなってしまったので、気が向くところまで読んでいただければ幸いです。

感想

とても良かったです。
既にもう一回読みたいくらいです。
この作品では藤子・F・不二雄先生の『ドラえもん』が取り上げられており、そちらも読みたくなりました。

 私、知ってる。チェーンスモーカーのカオリさんは煙草を吸う女に目くじらを立てない男が好き。「カオリも吸う?」そんな風に自然に声を掛けてくれる気の利いた男。顔や頭がそんなによくなくても、その条件をクリアしただけで彼女は途端に相手に対するガードを甘くする。
 そういう時の彼女は、わかりやすいくらいに喫煙本数が増える。
 吸殻で山積みになった灰皿を見つめながら、私はそれをかわいく思う。ストレス発散の喫煙の意味が、ときめきとすり替わる心理は愛おしい。心は健全。身体はこの上なく不健康。

この作品を読んでいて最初に心に引っかかったのがこの部分、特に最後の段落でした。
別の意味を持っていたはずの行為がときめきとすり替わる心理。
具体例がすぐに思いつかないのですが、なんとなく「ああ、わかる」と思いました。

「自分の目先のことにしか興味がなかったんじゃない? 加世は偉いよ」
 書き込んだ名簿を彼女の手に返しながら言う。胸の中で、繰り返して追加する。そう、加世は偉い。こんなどうでもいいことによく労力を割ける。まぁ、それがあんたの趣味と快楽なんだろうから、同情も賛美もないけど。

これもなんとなく、わかる。あまりにも冷たいので自分は少し違うと思いたいですが、結局人の行動はその人の意思だという思いはあります。場合によっては賛美はあると思いますけど、「どうでもいいこと」なら同じように思ってしまうかもしれません。ただ主人公にとって「どうでもいいこと」だとしても、加世さんの行動が「どうでもいいこと」だとは思いません。後に加世さんの「趣味と快楽」について説明があり、確かにそれはその通りかもしれず、本質的には加世さんを賛美できないかもしれません。けれども何かを良くしようとする行動は賛美すべきでないかと思いますし、それを「どうでもいいこと」と切り捨てる主人公にとっては、それが趣味と快楽なんだろうなと思います。

深く吐息を落としながら、私は世界の狭さについて考える。加世や立川の。それから、このエリート進学校全体の。昨日私が遊んでたナオヤや美也たちの方が頭は悪いけど、健全できちんと生きてる。世界は多分、ここより広い。

私は進学校出身ではありませんが、勉強第一の高校だったので、なんとなくわかります。
この部分は、自分の頭の良さを認める主人公が、そうでない人を見下しつつもその世界に憧れていることが表れているように思います。
それを踏まえて読み返してみると、また色々な感想が出てきそうです。

 私が、自分の「生きていくための現実感」と「想像力」がこんなにも薄いことに最初に気づいたのはいつだったろうか。立川の声を聞きながら、思い出そうとする。私は自分が只中にいるはずの「現実」に対して妙に感覚が鈍い。制服なんて、別にどうでもいい。だから加世にも呆れてる。
 学校ではこれを着ろと言われたから制服を着るし、課題をやってこいと言われたから勉強もする。制服がなくなる、と言われたら明日からは大人しく私服で来よう。与えられたものを飲み込む環境に私は何の不自由もないのに、どうしてみんな揉め事にしたがるんだろう。大体制服なんて、たかが三年間のことでしょう?どっちだっていい。賛成だとか、反対だとか。そのために眉尻を吊り上げたりだとか。無駄な行動力を発揮して必死になるなんてくだらない。他にやることないのかな。

改めて読むとかなり酷い言い様ですが、ここも「ああ、わかるな」と思いました。
「現実に対して感覚が鈍い」というのは、私自身の言葉では「現実に対する興味が薄い」となります。
例えば高校生の頃、先生の教え方に不満ばかり言って勉強しないクラスメイトには「それで損するのは自分なんだから現状を受け入れた上で最善を尽くしたら?」と思っていたし、「こんなことやる意味ない」と言いつつだらだらと続けるクラスメイトには「だったらやめればいいのに」と思っていました。
反抗すると決めた事には反抗していた(例えば英語の授業をサボったりした)のですが、それも自分に不自由があったからそうしただけで、意味のない書き取りの罰則などは文句を言う前にさっさと片付けていました。

このように主人公との共通点を書き残しておきたいのは、後に主人公が何をどのように乗り越えたのかが、自分にとって何か参考になるのではないかと思うからです。

 本を読むのが大好きで、私は創作の世界から大事なことを全て教わった。戦争の痛みも死別の悲しみも、恋の喜びも。自分が経験する前に、本であらかじめ知っていた。私の現実感が妙に薄いのはそのせいかもしれない。小説や漫画の世界の圧倒的な残酷さに比べ、現実の痛みはどうしたって小さいことが多い。私はそこに感情移入がうまくできない。

私は恐らく主人公ほど本を読んでいませんが、これも少しわかります。戦争はまだ痛ましさを感じられますが、死別についてはあまり現実感がありません。人間いつか死ぬからなぁ、とどこか冷めた目で見ている自分がいる気がします。そうか、この人とはもう会えないし話せないんだな、という寂しさはありますが、それは卒業とそれほど大きな差はありません。だって、どうせ人はいつか離れてしまうのだから、と。

『どこでもドア』を持つ私は、屈託なくどこのグループの輪にも溶け込める。愛想よく馬鹿のふりをしながら。親身になって話を聞いて、いい人ぶりながら。どこでも行けるし、どんな場所や友達にも対応可。
 場の当事者になることが絶対になく、どこにいてもそこを自分の居場所だと思えない。それは、とても息苦しい私の性質。

これも、よくわかります。今はそうでもないけれど、昔はそうでした。例えば高校生の頃なら、誰かと特別仲がいいわけではないけど、いじめられるわけでもないし、遊び相手に困るわけでもない、いわゆるグループというものに入っているようで入っていないような、そんな立ち位置。あとは親と仲良くはできませんが、他人の前では親とそれなりの仲に見えるよう対応可、というかそれを練習と思って意識的にやっていました。
ただ現在はそうでもない気がします。対応するのは面倒だから合わせたくない人には合わせないし、居場所も、多分あると思います。そんな風に変わったのがいつからなのかわかりませんが、高校生の頃は主人公に近かったのかもしれません。

 母は花が好きなのだが、切花を異様に嫌がり鉢植えを好む。勿体ない、というのがその理由だ。私は植物の世話に向かない、厭きっぽい性格をしているため、切花の方が断然嬉しいのだが。毎日水を替えてもいずれは干からびて早い内に萎れる。それを見ると安心するのだ。できることはやったけれど、その上で枯れるのだから仕方ない。もう捨ててしまっていいのだ、片付けていいのだ、と。

この主人公の論理は、結構多くの人が共感するのではないかと思います。自分の責任を逃れたい気持ちというか、仕方ないと周りに理解される形であれば安心する気持ち。勿論そこでいつまでも立ち止まっているわけにはいかず、できるだけスッキリした気持ちで前に進んでいくことは大切なのですが、その論理を当たり前に使い過ぎて自分の都合の良いように片付けるようなことはできるだけしたくないなと私は思います。

私の好きな漫画や小説を俗なものとして私から遠ざけようとし、文部省が推奨するような身障害者問題や戦争の話だけを良質な図書なのだと主張する母が疎ましかった。遊びに行ってきます。誰と遊んでくるの? 何をして遊ぶの? 首を突っ込もうとするのに、私が答える瞬間には、尋ねたことにもう興味を失っている。母は私の個性を「子ども」として以上には捉えなかったし、話の内容にも真剣に耳を傾けてくれたことがなく、父とはそこが違った。

これは自分が親になった時に覚えておきたいことです。子どもを子どもとして捉えるというのは、血縁関係の意味での子ども以外においても、即ち親子の子ではなく、大人子どもの子どもにおいても、子どもにとって屈辱であることがままあるように思われます。私は子どもを子どもだからといって許すのが苦手です。そうではなく、誰でも間違えることも失敗することもあるから、といって許したいです。許すといっても色々とありますし、怒るというのは感情が絡むので単純ではありませんが、基本スタンスとして子どもだからといって特別扱いしたくないという思いが、子どもの頃からあります。

彼は私の手を掴んだまま、私も情けないことに、それを振りほどかないままだった。まぁ、いいか。というのがその理由だ。ずっと付き合ってきた人だし、誰かと一から親しい関係を作り、恋人になるよりは遥かに手軽に楽しめそうだという軽い気持ちだった。
 何を以って、人間は自分の心に恋愛感情という名をつけるのか。ずっと先まで関係を築きたい、家庭を持ちたいと思える相手でなければ、「好き」とは呼べないのだろうか。自分が横の若尾相手に持っている感情に、私は名前が付けられない。この先もずっと彼に寄り添いたい、生きていたいとはもう到底思えないのに、顔を見れば懐かしく、雰囲気がそういう方向に流れるならキスもセックスもしてもいいと思う。これを俗に「情」と呼ぶのだろうか。別れた後のだらしない関係を示す際に、よく聞く概念。私が若尾に感じるものもこれなのか。

恋愛論的なところはどうしても引っかかります笑。
色々と考えられますが、一番気になったのは「何を以って、人間は自分の心に恋愛感情という名をつけるのか。」というところです。
これについては、十人十色であり、自分の恋愛について考える時には自分で定義するしかない、というのが私の学派の立場です。ちなみにこの学派は私しかいません。この学派はここを学問の出発点としています。
これに対して、主人公は「人間」というように一般的な定義を求めます。ここには、主人公が客観的であろうとする立場が表れています。後半の内容も踏まえると、自分に正直になるということが苦手なのでしょう。一般解を求める、というのは頭の良い人にありがちのように思われます。勿論一般解を重視すべき場合も多々ありますが、自分の素直な気持ちというのももっと大切にしていいんじゃないかなぁと思うことがよくあります。

私は若尾を見ていたい。彼は人と接することが不得手な癖に、私と違って自覚が全くない。自分は正義だと信じて疑わないのが、傍で見ていてイタい。同類だけど、私より程度がひどい。だからこそ、私は彼の恋人になったのだ。
 心の奥底に、人として最低の欲求が蠢いている。私は、彼が堕ちていくところが見たい。

これもなかなか酷い言い様ですが、これはどのくらい本気なのかな、という気もします。ただ若尾と縁を切らない理由を自分に言い聞かせているようにも思います。「恋愛感情」があるからでしょうか。そして主人公にとっての「恋愛感情」とは何なのでしょうか。それは、弱い若尾が自分を求めてくれること、なのかもしれません。

本による救いの形を論じるのって、ホラー映画による青少年への悪影響を嘆く風潮と表裏一体だから、あんまり好きじゃないけど、それでも本当に面白い本っていうのは人の命を救うことができる。その本の中に流れる哲学やメッセージ性すら、そこでは関係ないね。ただただストーリー展開が面白かった、主人公がかっこよかった。そんなことでいいんだ。
 来月の新刊が楽しみだから。そんな簡単な原動力が子どもや僕らを生かす

これもその通りだなと思いました。
幼少期を振り返ると、私は本やゲームに育てられたなぁと強く思います。自分の感性や考え方のパターンを、それらの中に多く見出すことができます。
しかし、当時そんなことを考えて読書やゲームをしていたわけではありません。
ただ、面白いから。その理由だけで遊んで、結果的におまけで学びがついてきたのでした。面白いという原動力のおかげで、大量の学びが苦でなかったのは良かったなと思います。
学びの中に娯楽あり。娯楽の中に学びあり。
これは私の座右の銘です。

「誰も見てないところで悪いことをしそうになることってあるでしょう?信号無視だったり、万引きだったり、誰かに嘘を吐くことだったり。バレなければそれでいいんだろうけど、それだとモラルハザードが起こる。一つを自分に許してしまうと、あれよあれよという間に、もっと程度のひどいことを許しちゃう。それってちょっと困るじゃないですか。最初はどうってことなくても、段々と自分で自分が許せなくなるかもしれない」

これは、だから父はその見張り役の神様的存在として藤子・F・不二雄先生を崇拝してた、という文脈に繋がるのですが、そこはひとまず置いておきまして……。
「モラルハザード」という言葉は聞いたことがありますが、自分の言葉になっていませんでした。この概念自体は私が普段かなり思考の基礎としているところなのですが、やっぱり自分が考えることなんて既に誰かが考えているもんだなぁと思いました笑。
ちなみに信号無視については、私はそれほど悪いと思っていません。ルールを守ることそのものが本質ではないと思っているからです。ただ、信号を待つことが苦にならない時には、心にゆとりがあるなぁ、なんて思います。逆に信号待ちにさえイライラしてしまうのはよほど忙しい時か、心に余裕がない時です。これを知っておくと、自分の心に余裕がないことに気づきやすいです。

藤子先生の作品が語る哲学や夢を、写真でも伝えようと思ったら、それには技術だけではなく人格も磨かないといけない。だってあれは、個人の性格と優しさが作りあげた賜物だから。優しい人間になりたいなぁ、いつもそう言ってた。

シンプルにいいなと思いました。
作家もそうですよね。作品を生み出すのは人間です。テクスト論も面白いとは思うのですが、私はどちらかというと作者や享受者といった人間に関わる部分に対する興味が大きいです。

「『悪魔のパスポート』と違ってストレートな話ではないですけど、私、『ドラえもん』のこういう、小学生を等身大で描くところ、好きなんですよ。変に教訓とかないところがいい」

ふと、古典のことも思い浮かべました。教訓といえば説話を思い浮かべますが、それらよりは物語や日記の方が人気があるイメージがあります。それは、そういうことなのでしょうか。
変に教訓がないというのは、学びがないということではないと思います。読者がそれぞれに合ったことを学べばいいと思います。ただ、それを共有することで自分では気づかなかった学びも得られるとは思います。

「今度何か買ってくるけど何がいい?」
「本当に?じゃあ、何か甘いものをお願い。あそこ、澤水堂のワッフルってまだやってる?理帆子大好きだったじゃない。林檎ジャムが挟んであるヤツ」

このお母さんのセリフは、かなりグッときました。
何がいい?と問われて、自然と娘の好きな食べ物が出てくるんですね。
お母さんに関わる部分は、ものすごく感動しました。もう一度、丁寧に読み返したいです。

ファン心理は、スターが取る行動の全てを美化して見せる。私はそんなものには幻滅してる。等身大の父親は、私の生活と地続きだ。

これは現代において色んなところで見られることのように思われます。
別に気にするほどでもない些細なことから、深刻な問題まで。
哲学でいえば権威に訴える論証に近いでしょう。
哲学は歴史的に見れば金持ちの暇人の余暇なのだから、現代人の多くはまず実学を、と言われるのをよく耳にします。
しかし哲学は思考の基礎なので、むしろ義務教育で必修にすべきだと思います。
かくいう私も不勉強なので、これから勉強したいと思っているわけですが……。

 写真を撮る時のシャッター音が好きで、私はそれを聞くと興奮する。
 一番鮮明な記憶は、嗅覚。現像液の饐えた匂いをかぐと、一瞬で昔に戻る。二番目が聴覚。シャッター音だ。三番目は、フラッシュを焚くことに伴う視覚だろうか。眩しさは勿論のこと、閃光の後で急に光を失う瞬間のあの感じ。
 水に入る感覚や夏のプールを忘れていても、どこかで塩素の匂いを嗅ぐと、水の冷たさを思い出す。それと似ている。

この感性、すごく素敵だなと思いました。このような文章をいくつも繰り返し読むことによって、このような感性が自分の中に染み込んでいくのかなと思います。
古典文学における世界観に関しては、既に色々と自分の中に少し染み込んでいるように思います。
もっと日常の様々なことを、細やかな感性で捉えられるようになりたいです。

 無責任に想像してから、ふと思う。今、父親に代わって二人の間に立つ、その役割を担っているのは別所なのではないかと。両方からの血の繋がりを持ち、他人同士を家の中で連結させる。だとしたら、そんなの息が詰まる。何故か、別所がいつか話してくれた氷の下の三頭のくじらを連想する。
 息のできない、氷詰めの海とくじら。

ここはタイトルに関わってくるのですが、どう捉えていいかわかりませんでした。次読む時の為に、メモを残しておきます。

『だけどそう考えると、僕らはラブストーリーもSFも、一番最初は全部「ドラえもん」からなんだろう。大事なことは全部そこで教わった』
 大事なことは、全て、『ドラえもん』と藤子先生から。確かにそうだ。だけど、違う。私はその世界を、あなたを通じて知った。お父さん、私はあの優しい世界をあなたから教わったのだ。
(中略)
何万光年も離れた場所から届く光。今輝くその瞬きの向こうには、もう既にその星はなく、消滅していることも多いのだと、私は昔、それもまた父から聞いた。

そう、人は人から学ぶのだと思います。そして子どもが一番関わる大人は親なので、親から学ぶことは多いのです。
親子に限らず、世の中の人はこのようにして繋がっていくのではないかと思います。人生の意味について考えた時、影響力というのは一つの答えになり得ると思っています。それは直接の影響でなくとも、間接的に影響を与えていくことがままあり、それが連なっていくのが人類の営みだと私は考えています。そうなると、既にもういくらか周りに影響は与えているはずなので人生の意味はあったんですよね。これからどれだけ意味を積み重ねたいか、というところを最近時々考えています。

ここまで長々と書いてきましたが、もう少し書いておきたいことがあります。
それは若尾の存在についてです。
この本を読んで若尾に好感を持つ人は殆どいないように思います。むしろ嫌悪感を持つ人が多いだろう、と。
しかし、そういう人は現実にもいて、そしてその人達も自分ではどうしようもなくなってしまっていることもあると思います。
結果だけを見れば、それはもう迷惑極まりないのですが、そういう人を見下したり切り捨てたりしてしまって良いのか、という気持ちもあります。
だからといって、どうすればいいのかはまだわからないのですが……。
『ケーキの切れない非行少年たち』に書いてあったことはこれに近いように思います。
ここでふと、『図書館戦争別冊Ⅱ』の水島と後藤を思い出しました。彼らは紛れもなく悪役ですが、これまで彼らの立場になって考えてみたことはなかったような気がします。しかし、逮捕された後の供述は確かあったと思います。どのような人物で、何を考えていたのか、それらに対応するにはどうしたら良いのか、そんなことも考えてみたいと思いました。

全体を通しての感想としては、「少し不在」の主人公が、居場所を見つけて前に進んでいく物語なのかなと思いました。帆を張って進むには風がいる、ということなのかもしれません。本をよく読む高校生にはかなり響く内容なのではないでしょうか。

また、中盤から別所さんと主人公の父になんとなく通ずるところを感じていた、ということも初読の感想として残しておきたいです。
次はここに着目して読んでみても面白いかもしれません。

おわりに

かなり長くなってしまいました。
『マチネの終わりに』の感想文とどちらが長いでしょうか?笑
でもまあ、残すだけ残しておいて悪くはないかなと思います。読んでくださる方には負担かもしれませんが……笑

辻村深月さんの作品は、心情の捉え方がとても上手だなと思います。
他には『オーダーメイド殺人クラブ』という著書しか読んだことがないのですが、他にも色々と読んでみたいなと思いました。
この作品も、近いうちにもう一度読み返したいです。

というわけで、最後まで読んでくださってありがとうございました。

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