読書感想文(206)山中伸弥・羽生善治・是枝裕和・山極壽一・永田和宏『僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう』

はじめに

こんにちは、笛の人です。
読んでくださってありがとうございます。

今回はオススメしてもらった新書です。
著者の名前を見ると錚々たるメンバーです。
そしてタイトルからわかる通り、この本は超有名人達も同じ人間なんだというコンセプトを元に作られた本です。

文章は平易で、一人50ページずつくらいで読みやすいので、色んな人にオススメしたい本です。

感想

とても良かったです。
正直に言うと、やっぱりすごい人はすごいじゃん、と思ってしまったのですが、読んでいてとても面白かったです。

長くなりそうですが、一人ずつ書いていこうと思います。

まずはノーベル賞受賞者の山中伸弥さんから。iPS細胞の研究をすることになった経緯や、その前身であるES細胞の話も面白かったのですが、最も印象に残ったのは次のところです。

永田「最後に、若い人たちに今、一番伝えたいメッセージはありますか?」
山中「今、五十三歳(対談時)になって思うことは、二十歳前後の五年間というのは、何にも代えられない宝物みたいな時間だということです。(中略)この時間に、何をやったら正解というのは全然ないと思います。でも何もしないのだけはやめてほしいと思う。どんなことでもいいから、「あのときはこんなことに夢中になっていたな」というのがあったなら、それがうまく行こうが行くまいが、絶対自分自身の成長につながっていきます。どんな失敗をしてもいい。学生時代にやった失敗は絶対に無駄にならない。五十三歳にやってあまりにも失敗をすると、ちょっとよろしくないんですけれども、二十代の失敗は宝物、財産です。今、皆さんはかけがえのない時間を過ごしているんだということを、ぜひ感じていただきたいなと思います。」

P54

これについて思ったことは二つあります。
一つ目は何でもいいからやることは確かに大切だということです。一方で、私は「何にもしない」をやることも、一つの選択肢だと思っています。しかし、この「何にもしない」をやるというのは、何かをやっている時でなければできない選択肢です。何にもしてないのがこれまでと同じなら、何も変わりません。しかし、何かを頑張っていて、無理だ、投げ出したいと思った時、あえて投げ出してみる。そうすると、別のものが見えてきます。
私自身の経験として、高校3年生の頃、勉強を投げ出したことがあります。
学校をサボって、河川敷をひたすら上流に向かって上りました。
そうして二時間くらいだったでしょうか、知っている駅に着きました。電車だと乗り換えなければ行けない所なので、まさかそんなところに辿り着くとは思っていませんでした。
この時、ありきたりな表現ではありますが、確かに私は自分の世界の小ささをこの身に感じたのです。
帰り道は川の反対側を通ると、コスモス畑が夕焼けに照らされて綺麗でした。

二つ目は、五十三歳になっても、失敗してもいいんじゃないの?ということです。
ある程度年をとった人は、「若いっていいねえ」とか、「若い時は失敗したらいい」とかよく言います。しかし、年を取っても、別にいいじゃないかと、私は思いました。
私はまだ二十代前半なので、実際に年をとってみないとわかりませんが、できるだけ長い間、若い気持ちで色んな事を貪欲に頑張りたいと思っています。

次に羽生善治さん。最近は藤井聡太さんの活躍をよく目にしますが、羽生善治さんも将棋界ではものすごい人です。
将棋の世界にはタイトルが七つあって、七冠を達成するだけでなく、永世七冠(一定期間タイトル保持)、もう同時代に生まれた人が不憫と言われても一理ありそうな勢いです。

そんな羽生善治さんの話の中で印象に残ったのが、価値観の物差しをたくさん持つ、ということです。
これは時間的な物差しと、社会的な物差しがあるように思います。

時間的な物差しとは、つまり短期目標と長期目標です。
将棋で言えば、この一局で勝つことと、今後の将棋人生で勝つことの二つが考えられます。例えば対戦中、負けそうな時にあえて普段ならしないような手を使ってみる。これまで通りにしたら負けてしまうから、予想外の一手を打ちます。そういう研究をすることで、その対戦で負けてしまっても、次の勝負で新しい発想に繋がるかもしれません。

社会的な物差しとは、立場と言い換えてもいいかもしれません。
例えば会社員としては営業成績が良ければ、優秀な人間だと評価されます。しかし、例えば家庭では何か問題があるかもしれません。逆にとても善良な人でも、営業成績が悪いだけで、悪い評価を受けることがあります。
だから、何か一つで自分の良し悪しを決めてしまわなくて良いということです。
将棋では、相手の立場で次の一手を読むことが大事になるそうです。逆に、自分が良いと思う一手は相手にも読まれやすく対策がされやすい。だから相手の立場になって、自分を読まれないように、そして相手を読んで指すそうです。

永田「先ほど羽生さんは「一秒でも指せる」と言われましたが、おそらく本当にその通りで、羽生さんの書かれたものを読んでも、最初の三手くらいが一瞬でわかるんだそうですね。一瞬でわかるけれども、この三手の読みをやるのに時間をかける、と。でも、長く考えれば考えるほど結論が出ないんじゃないでしょうか」
羽生「そうですね。最終的には理屈よりもリズムで「これがいいんじゃないか」と見極めをすることがよくあります。歌を詠むときもそうではないかと思うんですが、なんとなく「この一局だとこのリズムがスムーズかな」というような感じでしょうか。」

P76,77

この部分を読んだ時、「妙観察智だ!」と思いました。私がこの言葉を知ったのは数学者の岡潔氏の本で、数学上の発見がいかにして行われるかという話です。
私はこの概念をはっきりと理解してはいないのですが、なんとなくそう思いました。

もう一つ、覚えておきたいのが、「探険」と「探検」の違いです。
昔は危険を冒して行う「探険」だったのが、最近はよく調べて検査・検索してから出発する「探検」になったという話です。確かに最近はグーグルマップが優秀な為、道に迷うことはほとんどありません。進路などについても沢山の情報が出てきて、色んな事を知ることができます。
そして、色んな事を知ることができるからこそ、することを躊躇ってしまいます。
そういえば先に出てきた山中伸弥さんも、研究室に人を集めるために良いことばかりを言って宣伝したら、三人騙されてくれた、と話していました笑。しかしそれがなければ、iPS細胞はまだ誕生していなかったかもしれないのです。
この冒険する心を、私は忘れたくないなと思っています。

既に長くなっていますが、めげずに書いていきます笑。
次は映画監督として有名な是枝裕和さんです。

果たして映像を制作すること、映画をつくることは自己表現なのだろうか―。
それが、映画を撮りながらまず考えたことです。もし自分の中から出てくる表現であるならば、カメラはなぜ自分へ向かわないのだろうか、と。
映画というのは、決してつくり手である自分を撮るのではありません。僕はカメラの脇にいて、カメラの世界に向いている。世界を撮るんです。表現されるべきものは世界の側にある。このことが、初めてカメラを持ったときにいちばん難しかったし、いちばんおもしろかったところです。

P113

これを読んだ時、またしても数学の発見と重ねて考えました。
すなわち、既にあるものを発見する、という考え方です。数学の場合は人が存在する以前から存在する普遍性を持つ真理を発見し、映画はある意味普遍性を持つかわからない今ならではのものを発見して撮っているイメージでしょうか。
数学上の概念も人間が生み出したものと考えれば人間の産物と考えられる部分もありそうではあります。
どちらも共通しているのは、あるけれども、未知を含むものを表現するというところでしょうか。数学では、素数は存在するけれどもまだまだ未知が多いです。映画では何かテーマを持って撮っても、予想外の事も起こりますし、撮っているうちに新しい発見もあります。

僕はこの仕事を始めたころ、なぜ撮るんだろうという、すごく根本的なことで悩んだことがありました。直接見ればいいじゃないか。見ているものをわざわざ映像に撮ることが、一次的な体験ではなくて二次的な体験に過ぎないんじゃないかと、ネガティブにしかとらえられなかったんです。けれども、自分で番組をつくるようになってわかったのは、「いや、普段僕ら、全然見ていないじゃないか」ということでした。
見えていると思っていたものが見えていなくて、レンズを通してはじめてそれを意識できるようになる。それに気がついたとき、カメラを通して見ることがレベルの低い体験ではないとわかった。それで、この仕事がおもしろくなってきた。

P138

これ、すごくいいなと思いました。が、私は既にこの体験を持っていました。
私がこれを経験したのは、大学生の頃に短歌を詠んでみた頃です。
短歌を詠もうという意識が頭にあると、自然と色んなものがよく見えるようになるのです。これは幼い頃から多角的な視野を持とうと意識してきたことも幸いし、色んなものを色んな点から考えることができました。
そうした経験が、先日読んだ『線は、僕を描く』で水墨画を描くことが見える景色を変えることなどをよく理解できます。
最近また短歌を詠もうという意識が出てきたので、色んなものの解像度が上がって面白いです。

もう一つ印象的だったのは、「悪を排除して解決できることなんて、実は大した問題ではない」(P144)ということです。
確かに、それがわかっていたらそうすればいいだけですもんね。現実は悪を排除したらかえって困ることがあったり、或いはそもそも悪ってなんだという問題があったりします。
だからどうしたらいいのかはまだ答えは持っていませんが、心に留めておきたいことだと思いました。

最後にゴリラ研究者・山極壽一さんです。
色々とあるのですが、かなり長くなっているので簡潔を心がけます。

まず最初に面白いと思ったのが、進化論で人間社会を説明することにおけるネガティブな歴史です。
これは社会も進化するという考えの元、遅れた社会を進化させる為に介入するという植民地主義に繋がったという話です(P153)。その反省から、二十世紀には、動物で明らかになったことを人間に当てはめてはいけないという考えが主流になったそうです(文化人類学や人文社会学と自然科学の棲み分け)。
そんな中、今西錦司という研究者が「全ての生物は社会を持つ」という説を唱え、そこから紆余曲折を経て山極さんのゴリラ研究に繋がっているそうです。

次に、屋久島で住民・行政・研究者が参加する環境保護の取り組みは、「屋久島方式」として世界のお手本になっているという話です(P171)。
屋久島には一度行ってみたいな〜と思ってましたが、そんな世界レベルのプロジェクトが行われていることは知りませんでした。

次に、議論において、勝ち負けを決めるディベートにするのではなく、ダイアローグにすること(P197)。つまり、お互いを高め合うような議論をするということです。
これはまあ、友人と議論をしたことのある人ならよくわかるのではないでしょうか。
それに、例えば国会なんかを見ていても思うことです。自分たちの法案を通すことそのものが大切なのではなく、より良い社会にするために議論が必要なはずなのですが、選挙の為もあるのか、どうもそう上手くいっていないように思います。

あと細かいことで言えば、スワヒリ語で「ポレポレ」という言葉が、ぼちぼち、ゆっくりという意味だということです。語感が可愛らしいので、ぜひ使っていきたいです。古語と合わせて「ぽれぽれなり」とか使いたいですね笑。
あと山極さんはゴリラと一緒に暮らすというものすごい体験をしている人なので、体験の大切さも改めて感じました。
色んな体験をした人の体験記などもまた読みたいです。

最後の最後に、この本の元になった講演で司会を務める永田和宏さんについて、一つ。これは確か羽生さんとの対談で書かれていたことですが、短歌で使う言葉が直感的にわかるという話がありました。
歌人の俵万智さんは、結構色々と熟考するタイプなイメージがあるので、対照的で気になりました。
短歌にも色んな詠み方があります。元々私が短歌を詠み始めたのは、歌人の気持ちを知りたいと思ったからです。
短歌も読み手の立場で鑑賞するだけではなく、作者の立場で鑑賞できるようにもなりたいなと思います。

おわりに

最近、読書感想文が長くなりがちです。
でもまあ、書きたいことがある時は書いたらいいかな〜と思っています。

ということで、もし最後まで読んでくださった方がいましたら、ありがとうございました。


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