読書感想文(255)宇佐見りん『推し、燃ゆ』

はじめに

こんにちは、笛の人です。
読んでくださってありがとうございます。

今回は第164回芥川賞受賞作です。
芥川賞は気になりつつもほとんど読めていないのですが、ひょんなことから本をもらえたので読むことができました。

感想

文体は若干読みにくく感じましたが、短いのでサラッと読み終えました。
正直、少しモヤモヤが残っている部分もあるので、書きながら頭を整理していきたいと思います。

近年、「推し」という言葉が流行り、たくさんの人が各々の意味で「推し」という言葉を使っています。
そんな「推し」をテーマとして描いたという点が新しく、面白いと思いました。
一方で、主人公が恐らく発達障害の特性を持っているようであり、身近な「オタク」とは異なるように思われました。なので、これまであまり理解ができなかった、推し活に励む人々を少し理解できるのではないか?という期待が、あまり満たされなかったことがモヤモヤの原因の一つだと思います。とはいえ、この作品がそれを描いていないのだから文句を言っても仕方がないことです。ただ、「推し」をテーマとした他の小説も読んでみたいなと思いました。

この作品を元に推し活について考えてみると、やはり自分には共感できないように思いました。
この作品において、主人公は自分の為に推し活をしています。しかし、それが自分の為になっていないように思います。いつか終わってしまうリスクのあるとりあえずの救済を永遠だと信じ込み、その救済に縋っていた結果、絶望を招いたのだ、と私は解釈しました。
世の中には様々な救済があります。その中で一つを信仰してしまうことのリスクがよくわかります。
主人公の場合には、自身の特性や環境から、推しを拠り所とすることになったのは自然に感じられます。しかし、その原因は主人公の特性や環境に起因するものであり、身近にいる多くの「オタク」は異なる原因を持っているように思われます。つまり、他にも拠り所の選択肢を多く持ちながらも敢えて推しを拠り所としている人が多いように思われます。
推し文化はどちらかといえば、こちらに支えられている気がするので、その実体の方が興味が湧きました。

全体として、推しとは何かというよりも、生きづらさを抱えた人の依存先として推し活が合致していた、という印象です。

ここまでつらつらと書いてきましたが、タイトルの「燃ゆ」の部分、すなわち炎上についてはそれほど注意が向きませんでした。
推し活が強制終了する原因として炎上は自然ですが、それだけの役割では無いような気がしてなりません。
どれほど詳細に推しのことを観察・分析しても、知りきれない壁があるということはわかりました。けれども、それは身近な友人や家族でも同じことです。
それに、家族といえば、主人公が家族に疎まれて(?)いるのも印象的でした。こちらの方が私の現実には近いかもしれません。推し活を「無駄」と一刀両断する人(直接言わなくてもそう思っている人)は世の中に沢山いるように思うからです。

最後にもう一つ。
これも本の内容とはズレますが、「推し」はどのようにして選ばれるのか、以前から疑問に思っています。
確かに同じ人間はいないけれど、顔とかエピソードとか、その人を特定し得ない要素を理由に推している人をよく見かけます。それとも、そういう人は時代の流れに従って、次々と推しが変わっていくものなのでしょうか。
この作品で登場する、推しを変えた友人は、より身近な存在となるために推しを変えたわけなので、また別の話です。

感想

「推し」とは何なのか。
結局わからないままですが、この自分とは異なる価値観に触れられるのは、純文学の醍醐味かもしれません。
というのも、又吉直樹『劇場』で似たようなモヤモヤを感じたからです。
でも、村田沙耶香『コンビニ人間』はすごくしっくり来たので、人によって合う合わないがあるだけでしょうか。
まだまだわからないことだらけですが、他の本も沢山読んでいけば、見えてくるものもあるのかなと思います。

ということで、最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集