読書感想文(392)東山魁夷『日本の美を求めて』

はじめに

こんにちは、笛の人です。
読んでくださってありがとうございます。

今回は青の絵で有名な東山魁夷の随想・講演記録です。
長野県の東山魁夷館に行ったので、そこで買いました。

※2024年に読んだ本

感想

随想はあんまり好みじゃなかったけど、講演記録はとても良かったです。
随想は変に脚色されている感じがして、読んでいてしんどかったです。こう、「上手い文章を書いているぜ」みたいな意識が感じられたというか……。

私は人間的な感動が基底に無くて、風景を美しいと見ることは在り得ないと信じている。風景は、いわば人間の心の祈りである。私は清澄な風景を描きたいと思っている。汚染され、荒らされた風景が、人間の心の救いであり得るはずがない。(中略)
日本の山や海や野の、何という荒れようであろうか。また、競って核爆発の灰を大気の中に振り撒く国々の、何という無謀な所業であろうか。人間はいま病んでいる。

P16

東山魁夷の使命感のようなものが感じられます。
すべての絵が人の救済の為に描かれたものでなくても良いとは思いますが、こういった絵で救われる人がいたらいいなぁと思います。

どんな場合でも、風景との巡り合いは、ただ一度のことと思わねばならぬ。自然は生きていて、常に変化して行くからである。また、それを見る私達自身も、日々、移り変わって行く。生成と衰滅の輪を描いて変転してゆく宿命において、自然も私達も同じ根に繋がっている。

P27

この感性は欲しいなと思います。
日々を大切に生きること。
なんとなく、梨木香歩さんの小説を思い出しました。

私が常に作品のモティーフにしたり、随筆に書いているのは、清澄な自然と素朴な人間性に触れての感動が主である。戦後の時代の激しく急な進みの中で、私自身、時代離れのした道を歩んでいると思う時が多かった。しかし、今では、それで良かったと思っているし、また、それをこれからも貫き通したいと念じている。
なぜなら、現代は文明の急速度の進展が自然と人間、人間と人間の間のバランスを崩し、地上の全存在の生存の意義と尊さを見失う危険性が、高まって来たことを感じるからである。平衡感覚を取り戻すことが必要であるのは言う迄もない。清澄な自然と、素朴な人間性を大切にすることは、人間のデモーニッシュな暴走を制御する力の一つではないだろうか。人はもっと謙虚に自然を、風景を見つめるべきである。それには旅に出て大自然に接することも必要であり、異なった風土での人々の生活を興味深く眺めるのも良いが、私達の住んでいる近くに、たとえば、庭の一本の木、一枚の葉でも心を籠めて眺めれば、根源的な生の意義を感じ取る場合があると思われる。

P30,31

少し長いですが、とても良いな思って引用しました。
時代の流れと違っても信念を貫いたことも、自然と人間の関係について危機感と使命感を持っていることも、自然に接する態度もいいなと思いました。

さて、その先生の歌碑のあります池の堤の端に、私のつたない筆による三山の歌がございます。川端先生がご生前に、「こんど桜井市で万葉の歌碑をいろんな人に書いてもらって、それを置くということです。草むらの中に目立たなく小さい石で置くというのはたいへんいいことだと思うので、あなたもぜひ書いてくださいよ」といっておられたのですけれど、私のばあいも、先生が亡くなってからずっとあとになってできたわけであります。

P78

草むらの中に目立たなく小さな石で歌碑を置くというのはすごくいいなと思いました。
遊んでいる子どもたちがふとした時にその歌碑を見つけて、これはなんだろうと不思議に思う。そういった素敵な出会いが想像できます。
河原の小さな石に和歌を書き付けて、またそれを河原に戻す、みたいなことをやってみたいなと思ったけれど、現代では無許可でやったら怒られそうな気がします。
河原の石って、市の所有物なんでしょうか?
もしやっていいなら、ライフワークにしたいかもしれません。

おわりに

最後よくわからない思いつきの話になってしまいましたが、こういうアイデアを大事にしたいです。
できるのか、調べてみようと思います。

東山魁夷の作品は割と特別展をやっていそうなので、そのうちまた観れると思います。楽しみです。

ということで、最後まで読んでくださってありがとうございました。


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