読書感想文(399)岡潔『紫の火花』(朝日文庫)

はじめに

こんにちは、笛の人です。
読んでくださってありがとうございます。

今回は岡潔のエッセイです。
岡潔の本はそこそこ読んでいるので、ちょっとずつ理解度が上がっているように思います。
ちなみに、タイトルは著者曰く芥川の言葉が由来とのこと。

感想

創造とは記憶や側頭葉的(類型的)判断とは別のものであって、感情、意欲を離れては無いものである。

P98

「独創とは何か」という章から引用。
昨年から表現力を身につけるために表現を頑張りたいと思っていたので印象に残ったのでしょう。
私は常々自分は表現が苦手だと思っていましたが、それは側頭葉を使うやり方に慣れてしまっていることが一因かもしれないなと思いました。例えば、近い未来の計画についてあれこれ考える時、色々な場合を想定してそれぞれに対策を立てたりしていました。今も無意識にやっている気がします。それは即ち、こうなればこうする、という判断の仕方です。
こういう思考は受験勉強では役に立ちましたが、今後はそうでない頭の回路を作っていかねばなりません。

心は普通、習慣、欲情、本能等に束縛せられてしまっていて、めったに自由に働かないが、人には普通その自覚がないのである。自由な心の働きが無差別智である。独創は主としてその働きによってできるのである。独創の描かれる画布は大脳前頭葉である。

P105

これも心に留めておかねばなりません。
恐らく、以前読んだ『物語のつくり方』で「シーンは右脳から飛び出す」と書いてあったのはこのことでしょう。
また、「物二つ三つ組合せて作るにあらず、黄金を打ち展べたるやうにてありたし」という芭蕉の言葉も覚えておきたいです。

私たちの住んでいる世界を、宗教界に対して、理性界と言います。
理性界を流れている諸川、例えば数学、自然科学、芸術、教育等を、その源を究めようとして流れを遡りますと、どれも皆途中でわからなくなってしまいます。
ここが理性界と宗教界との境であって、このいわば霧がかかって、川の流れがそれから先わからなくなってしまっているところを、無作別智の世界と申しましょう。理性界から望み見た宗教界は、全体が無作別智の世界であるとも言えます。
智とは、知、情、意の力という意味です。分別と言うのは判断という意味であって、判断が入れば分別智です。さらに、自分という意識(小我)が入れば世間智です。だから理性界の人たちがその存在を認めている知、情、意は、すべて分別智か世間智かです。
無作別智とは、人なら人に、それが働いているということのわからない智力です。だからこれは大自然の智力です。無作別智を西洋流に純粋直観(純粋とは感官及び理性を通さないという意)と言い、分別智、世間智を理性界の知・情・意と呼びましょう。

P144,145

かなり長い引用ですが、大事なので。
これに従うと、自分は多分世間智を抜け出しつつあるけれど、まだまだ分別智の世界にいて、というか分別智を鍛えすぎたせいでかえって無作別智からかなり遠のいているような状態にあるのだろうと思いました。そして恐らく自己表現が苦手なのもここに原因があります。
しかし、このことを認識できたということは既に目指すべき方向が見えているということなので、多分5〜10年もあれば霧の向こう側に行けそうな気がします。
そしてその時になれば表現する手段が必要になるから、そこに備えて表現力を伸ばそうという今の方針も間違っていない、ということで迷いが晴れて清々しい気分になりました。

温き母の情やところ天

P160

これは岡潔が祖父から言われたという「他人を先にし、自分を後にせよ」の具体例です。
自分の好き嫌いの前に、それを作ってくれた他人の心を思うこと。

おわりに

今年も時々岡潔の本を読みたいです。
そしてそのためにも色んなことを勉強したいです。
ということで、最後まで読んでくださってありがとうございました。

メモ

以下、自分用のメモ

173自我が抑止できていれば「いやだなぁ」はない

183競争心による向上心は修羅道

199物質的な所有欲も、人なら当然出てくるものと思うのは間違いで、作るからあるのである

201人の心の窓というものは滅多に聞いているものではない。時々開いておればわかるのである。その時ほうり込んでやることだ。

201慈悲がわかるのは二十代以降

216放任すると、動物性ばかりが跋扈して、人間性は逼塞する。→カント『永遠平和のために』の人間の悪性

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