読書感想文(401)アンドレ・ブルトン『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』(巖谷邦夫訳)

はじめに

こんにちは、笛の人です。
読んでくださってありがとうございます。

今回は芸術関係の本です。
2024年はシュルレアリスム宣言から100周年ということで読み始めましたが、読み終えたのは2025年になってしまいました。

感想

んー、かなり読みづらかったです。
シュルレアリスム宣言の方はまだなんとなくわかりますが、溶ける魚の方は読むというより文字を追っている感じで、殆ど内容が頭に入りませんでした。
唯一ピンときてメモしたのが次の表現。

大地は私の足の下にくりひろげられる新聞にすぎない。ときたま写真が目にはいり、それはいくらか興味のあるものだし、花々はそろってその匂いを、印刷インクのいい匂いを立ちのぼらせている。

P104

これがどうピンときたのかは難しいのですが、やっとちょっとわかった!という気がしました。逆に言えばそれくらい他の部分がわからなかったということです。
ここから考えたことが二つ。
一つは、シュルレアリスムは文学で享受するのはかなりキツいということ、せめて日本の作品じゃないと感覚すらわからないのでどうしようもあひません。絵だと良いなと思えるのは言語の壁を越えているからでしょうか。
二つ目は、わからないということにストレスを感じてしまっているということ。シュルレアリスム本来の目的からは外れていますが、現代の多くの人は同じように感じるのではないかと思います。知的にわかるのではなく、情的にわかるべきところなのでしょうが、それに慣れていないため、ストレスを感じます。自分の課題の一つです。

さて、シュルレアリスム宣言の方でまずメモしておきたいのが、アンドレ・ブルトンによるシュルレアリスムの定義です。

シュルレアリスム。男性名詞。心の純粋な自働現象であり、それにもとづいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようとくわだてる。理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書きとり。

P46

ここを読んだ時、以前自分がやろうとしていたことに少しだけ近いなと思いました。明らかに違うのは、私はそれによって自分の思考を開花させようとしたのであって、それそのものを作品としようとしなかったことと、その思考の自由化によって他者とのコミュニケーションが上手く取れなくなって孤独に苛まれることです。
私は恐らく、シュルレアリスムの手法を借りて、創作をしたいのだと思いますが、一方で他人に理解されないことを恐ているのだと思います。
そういえば以前訪れた芸術科の卒業制作展で、作者コメントで「心に浮かんだものをそのまま表現しようと思ったのに具象的なものを描いてしまうのは、私はまだ何かを恐ているのだと思いました」といった旨のコメントがあったのを思い出します。

シュルレアリスム文学である溶ける魚は私に合いませんでしたが、その手法や理念に関しては魅力を感じています。

私にいわせれば、現前する二つの現実の「関係を、精神がとらえた」と主張するのはまちがいである。精神ははじめ、なにひとつ意識的にとらえはしなかったのだ。二つの項のいわば偶然の接近から、ある特殊な光、イメージの光がほとばしったのであり、私たちは、これに対してかぎりなく敏感なところを見せている。

P66

ここを読むと、やっぱりシュルレアリスムは二つの項の組み合わせを無限に試すための手段であるように思われます。その過程で思いも寄らない組み合わせから特殊な光が生じ、そのイメージから作品が生まれるのではないでしょうか。
日頃は常識という枠組に囚われているせいで、組み合わせが有限になってしまっているという自覚は持っておきたいです。

おわりに

今はまだ消化不良ですが、これからたくさんのものに触れていく中で、この本のことがわかるときが来るかもしれません。
少なくとも、シュルレアリスムの考え方は私に影響するし、この本をわからないなりに読んだことはその影響を増幅させるのに貢献する気がします。

ということで、最後まで読んでくださってありがとうございました。


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