![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/55541129/rectangle_large_type_2_c6b5d6a8c16382e666b8ce305b054d02.jpeg?width=1200)
【文京区】後楽園と軍事工場
先輩お父さん達の話を聞いていると女の子は10歳過ぎたあたりで父親から離れていっているようです。すでに5歳近くなってアレコレと注文を付けられることも多く、1,2歳の頃の写真を見てはこのころは可愛かったなと2,3年前の苦労はさっぱりわすれて思ったり。
ただ、当時4,5歳の子を見ると、うちの子早く大きくならないかなとも思っていたんですよね。常にないものねだりになっちゃいがち。
5、6年後に訪れる思春期の危機にどう対応するか。そもそも対応できるのか。できない気がする。
数年後は確実に一人で地図巡りをすることになるんですけど、それはそのつもりでいます。どのくらい東京回れるのかな。同じところも何度もやってみたいですね。楽しみです。
今回の場所は後楽園です。水道橋駅西口から橋のところで東京時層地図をパチリ。
ここの場外馬券場WINSには10代後半に良く行きました。
走っていた馬はビワハヤヒデとかナリタブライアンとかの時代ですね。90年代前半。
場内テレビ画面で競馬をみながら「差せ!」とか「そのまま!」とか叫んでいたし。週間ギャロップを買って一週間読み込んで金曜日に競馬新聞を買って土日に競馬にいく。楽しいといえば楽しいけれど孤独ゆえ寂しさゆえに行きついた場所なのかなとおもいます。夕方帰路につくときの空虚感はキツくて特に冬場はそれを感じましたね。
孤独は人を空虚とも思える行動に導いてしまう。
それが何かを始める原動力になる場合もあるので孤独が悪いとは言えないですけど、なんの利益にもならないし競馬で負けてしびれてる人間って他人からみたら愚かな人間。でもこれも一つの青春だったんだなと思います。
僕の中では競馬って出来事と年代を結びつけるもの。大学の友達と有馬記念に行ったなぁ・・スペシャルウィーク、グラスワンダーだったから99年。アルカセットのジャパンカップだったから2005年。震災で皐月賞は東京コースだったなとか。誰々の結婚式の日に菊花賞でゴールドシップが勝ったから2012年だとか。
最近はやっていないのでわかりません。土日が仕事になっちゃうと出来事と結びつけようがないですね・・・。
後楽園にあるローラースケートリンクにもいきました。
20代中頃にふいにインラインスケートをやりたくなって練習場所としてしばらく通っていたことがあって、今回本当に20年ぶりにインラインスケートリンクに行きました。よくぞ今まで存在してくれたという思いです。
HIPHOP系の綺麗なお姉さんが子供の滑り方をアドバイスしてて親子共々楽しめました。ありがとうございます。まさか20年後に親子で滑るなんて露にも思っていませんでした。
20年ぶりのインラインスケート(娘撮影)
20年前のインラインスケート
今回は水道橋西口から後楽園への道のりから撮影。
この橋はたくさんの人が色々な思いを持ちながら歩いている橋ですね。
東京ドーム、後楽園ホール、場外馬券場、平時ならぬ情念の集合場所。
ゆめまぼろしと現実の懸け橋がこの場所。いままでどれだけの人がどんな思いを抱きながら歩いていたのでしょうか。うーん念が深そう。。。
明治期初期の地図
水道橋駅は陸軍練兵場になっています。
東京ドームや後楽園ホール、ウインズ近辺は
「砲兵工廠第一砲兵方面」
工廠(こうしょう)って何ぞやというと、軍事工場で開発、製造、修理、貯蔵を担ったとのことで、ここはおもに小銃を扱っていたようです。鞍工場、鐵?工場、銃器庫という表記もみられますね。
明治維新前はこの工廠の土地は誰が持っていたのかと1860年頃の地図をみると
常陸水戸藩 水戸中納言慶篤 35万石
慶篤は水戸藩10代藩主で、徳川幕府最後の将軍、徳川慶喜の兄ですね。
水戸徳川は御三家。なるほど、小石川後楽園は水戸藩のお庭。
歴史は古く1630年代に2代藩主光圀が造ったようです。水戸の御老公、黄門様です。都内の公園の中でも歴史格式の高さは随一なのではないでしょうか。
今まで見てきた中で、皇居以外の徳川御三家の大きな屋敷は
紀伊徳川は赤坂御所、尾張徳川は戸山公園一帯と団地となっていますので、明治、大正、昭和の動乱の時代を乗り越えて、園が維持されているのは価値があることだと思います。
小石川後楽園はまだ行っていないのでいってみたいですね。
明治後期の地図。陸軍練兵場はなくなり「東京座」という演芸場ができています。歌舞伎をやっていたようです。川沿いに線路ができました。
川沿いに市兵衛河岸と表記あり。砲兵工廠の荷揚げに使われていたようです。現代から考えると川を使うっていう考えがつかないですけれど、この当時は川を使った運搬だったんですね。
1920年頃、大正時代 「甲武線より水道橋および砲兵工廠を望む」 の写真 奥にある橋が水道橋だとすると、この写真をとった場所は現在でいうなら「東京医科歯科大学さいかち坂校舎」 あたりでしょうか。奥に工場の煙突が10本ほどみえます。地図だとずっと東の方からの撮影となります。
大正時代の地図。地図からでも4本煙突が見えますね。
砲兵工廠は機能を小倉に移転して昭和10年に幕を下ろし翌年に後楽園スタヂアムが買収して昭和12年に野球場、競輪場などができたとWikipediaにはありました。
後楽園スタヂアムは何者なんだと調べてみると昭和14年の代表取締役会長は吉岡重三郎、のちの東京テアトルの創業者です。
当時の東横百貨店の関連会社と国会図書館の記事がありました。
下の地図は昭和10年頃の地図なので、微妙な時期。白抜きされていることからまだ軍事工場があったのかもしれませんし、すでに移転して更地になっている跡かもしれません。
戦後、高度成長期前夜 1960年頃 野球場はもとより競輪場があるっていうのが驚きですね。競輪場、野球場、アイスパレス。
アイスパレスは普段はスケート場で1964年東京オリンピックのときはボクシング会場になったんだとか。71年解体。野球とスケートとギャンブルの血はいまも脈々と受け継がれていますね。
地図をみると後楽橋は昭和10年頃の地図にはあり、野球場ができたのもそのくらいの年代ですから、90年にわたってこの橋は平時と違った様々な思いをもった人が行き来していた橋なんだなということがわかりました。
この日はスケートリンクで遊んだあとは、ドームを通って東京ドームシティアソボーノ 周辺も20年前とくらべても楽しい感じになっていました。後楽園スタヂアム、のちの株式会社東京ドームは今年に入って三井不動産の子会社になったりして大変そうですが、なんとか楽しい空間を作っていただきたいと願っています。
そして僕がここで最後に野球をみたのは、80年代後半。巨人対ヤクルト戦 4番が原選手、中畑、篠塚、岡崎、山倉、吉村という時代。
子供は東京ドームシティにあるアソボーノのほうが喜びますね。
小石川植物園もふくめてまた行きたい場所です。