9,【渋谷区】笹塚南ドンドン橋の謎を解く。
東京時層地図・笹塚編
渋谷区は不思議な場所が多い。車も通れない細い道を歩いて行ったら公園で行き止まったとか、こんな人通りない道に遊歩道なんて需要があったのかな?と思う場所もある。
そこは暗渠化している水路なのだ。
はじめに
2015年、笹塚駅前にメルクマール京王笹塚というビルが建った。
メルクマールはドイツ語で目印。ランドマークのドイツ語版か。
存在感抜群の高さ93メートル。上階は住居だ。
標高は42メートルと高い場所に建っているせいか、4階部分にテラスすら周りのビルの7.8階に相当する眺望がある。
図書館もビル内にあるし、クイーンズ伊勢丹が隣にあるし、ライフも近くにある。なかなか羨ましい住環境。
そんなメルクマールのほとりにある遊歩道から。
単なる川ではない。多摩川から意図的に作られた水路であり、1900年まで貴重な水源だった。
現在の玉川上水はほとんどが暗渠で水がちょろちょろ流れる水路だが、この笹塚近辺は暗渠化されていない貴重な玉川上水を見ることができる。
そしてほんのちょっと下流に行くと三田用水との分岐点もあり、歴史的にみても重要なポイントである。
写真はメルクマールと暗渠になっている玉川上水。下の画像が現在地。
文明開化時 1876-84(明治9~17年)
今から140年前に飛ぶ。
ほぼ畑だ。家が30戸ほどしかないのがこの時期の笹塚だ。
甲州街道沿いに沿っている玉川上水は現在の代田橋駅付近から方向を変え、一度現在の笹塚駅に向かって大きくカーブし、そこから急激に南下し、大山町から再び北上し、幡ヶ谷、初台、新宿にいたる。
その理由はなぜか。
地形図をみると、笹塚から幡ヶ谷までの甲州街道沿いは若干窪地がある。
上水という性質上、当時は低地に上水を設置することを避けたのだろう。
何せ1650年代の江戸時代初期の話だ。低地に盛り土して上水を通す手間よりも、なるべく高いところを通るようにしたほうが、技術的には楽だろう。
もしくは・・・
何か強力な地権者がいて、「オラが土地に上水を通すことはまかりならん」または「オラが土地に水をよこせ」といった顛末があったのかもしれない。
地域的な事情が隠されている気がする。
明治末期 1906-09(明治39~42年)
甲州街道の北にできた水路は淀橋浄水場までの上水として使われていたところで、現在は水道道路として道路になっている。
一直線で引かれている水路であり、低地になっているところには盛り土するなどして明治期の土木技術を駆使したのではないかと推測。
画面中央には竹林のような表記が見える。
笹塚の語源かと思いきや、語源の笹塚は甲州街道沿いの交番の裏手のあたりの一画に熊笹の生い茂った塚があったらしいことからその名がついたようだ。
塚の跡っぽいものは分からなかったが、古い文献には「笹塚2丁目13番の中村邸に塚があり」と書かれていたようだ。はたして近くの駐車場の名前は「中村駐車場」とあった。
塚というのは古墳だろう。西暦200~700年の間の古墳時代にある程度の勢力を持った人物がこのあたりに住んでいたということになる。
そんな前から人が住んでいるなんて驚きだが、5000年前の縄文時代の遺跡も発掘されているから、驚くには値しないのか。
近代とも言える明治初期すら、30戸しか住居がない閑散としているこの場所に古墳なんて驚きではないだろうか。
明治期のこの地図から見ると確かに笹塚近辺は竹林が多い。この時代は竹林が結構多いのだ。
竹自体も色々と利用価値があったからだろうと推測される。たけのこも食べられる。
今からは想像つかないが、昔は竹林が多かったから笹塚と言い切ってもいいだろう。
民家は少なく、60戸ほど。
関東大震災前 1917-28(大正6~昭和3年)
笹塚の駅が出来た。
駅ができると人の流れが変わる。学校、工場、交番、変電所。
まだ玉川上水は暗渠化されていないが、線路近くに橋が昔からかかっているのがわかる。
実はこの橋の跡は今でもある。
それがコレ。
「南ドンドン橋」
赤い塗料がうっすらと残っており、裏には欄干の跡のような穴が2つ空いている。
ドンドンという言葉には覚えがある。
歌川広重団扇絵の「どんどんの図」である。
現在の飯田橋付近の牛込揚場付近から船河原橋付近の堰を団扇絵にしたもので、堰から流れる音がドンドンと聞こえていたからそう呼ばれているようだ。
他にも溜池の堰から流れる音から「赤坂のどんどん」と言われた「虎ノ門の葵坂」もある。
南ドンドン橋の由来はこの地にも堰が近くにあり、そこから流れる水音がドンドンと聞こえたことからその名前がついたのではないだろうか。
そんなことを考えていたら、橋の西側に堰はあった。ぼんやりしていて気がつかなかっただけ 笑
南笹塚にあるドンドンドンドンと水音の聞こえる橋。
略して南ドンドン橋。
関東大震災前 1917-28(大正6~昭和3年)に作られたもの。
京王線のこの辺りは今後、大規模再開発する計画なので、この橋跡もいずれ消えてしまうだろう。
昭和戦前期 1928-1936(昭和3~11年)
人口激増。
関東大震災後に焼け出された人たちが、新たな土地を求めて笹塚に住み着いたようだ。
これだけ住居があって、下水も大して整備されていないのであれば生活排水は玉川上水に流れ込む。
汚くなっていたはず。
考えても見れば、田舎に行けば農業用水や水路などはあまりにありふれた存在だ。
用水路は農業に使われる区間は、魚が住み着く程度の綺麗さは保っているが、農業に使われない区間となると、生活排水が流れ込むので急に汚さを増す。
暗渠化して匂いが漏れないようにする対策となる。
この時代に三田用水は早々に暗渠化された。
現在の玉川上水と三田用水との分岐点
ここから別れて下流に流れる。
手間が玉川上水、奥が三田用水の暗渠。
右から左に流れている形。
ちなみに甲州街道の北側を並行するようにして通る水道道路は、玉川上水から淀橋浄水場(現在の都庁)まで水が引かれていた。
水道道路は周りからみてかなり高い位置にある。これは盛り土されている部分もあるだろう。
場所によってはトンネルが通るくらいの高低差がある。このトンネルは渋谷区本町にいまでもある。下の画像がこれ。
219がトンネルの位置。
この高さで上水があった。関東大震災前は現役だったが、その後は埋め立てられて現在の水道道路になった。
地図画像は昭和戦前期 1928-1936(昭和3~11年)。とすると両側の柱は90年前のものだろうか。
寸詰り感が国会議事堂周辺の水準原点の建物っぽくないだろうか?
この時代の流行りなのかもしれない。
削られた標識はなんと書かれていたのだろうか。水準原点の建造物はこの位置には「大日本帝国」と篆文で書かれていたが。
(感想)
今回は明治初期から昭和戦前期(1876-1936)までの笹塚近辺と水道道路の地図の一部を見てみました。
最初は三田用水との分岐点を発見してそれだけが目当てだったのですが、
玉川上水が笹塚近辺だけ甲州街道に沿っていない謎
南ドンドン橋
笹塚の地名の由来の(塚)古墳があった場所
水道道路のトンネルなど
色々な収穫があって面白かったです。
特に南ドンドン橋の由来についての、堰の下りは会心の自画自賛です。
ドンドンというのが堰であるのなら、近くに堰があるはずだ・・・それも川上にあるはずだ・・で、よくみたら堰があったのです。答えは100年前の地図にすでに書かれていたのです。
ああ、今回は快心の出来だ。