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愛は、たいてい渚カヲルの姿をしている(『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』感想文)

1.序

 かつて、カヲルくんはママでありパパであった。エヴァの世界では、愛は、たいてい碇ユイの形、すなわちママの姿をして現れる。今、カヲルくんはママみが溢れるパパである。カヲルくんはパパのようでいて、常にママっぽさを帯びている。愛はカヲルくんであり、カヲルくんが愛なのか。

 渚カヲルとはいったいなんなのだろう。
シンジくんにとってカヲルくんはなんだったのだろう。「カヲルくんはもう一人のシンジ」として作ったのだと庵野監督は言ったそうです。それは第弐拾四話でも『シン・エヴァンゲリオン』の台詞の中にも示されてはいますが、自己愛の象徴という説明だけでは片付けられないような気がしていて。

 新劇場版、とくに『シン・エヴァ』では、主要人物に留まらず、社会や人々の暮らし、世間を丁寧に描く試みがなされました。社会を具体的に描写せず、キミとボクの心の在り方が世界の存亡に直結するセカイ系コンテンツ。その始祖であるエヴァンゲリオンの完結編であえて描かれた社会のこと、ではなく。明らかにされた世界の存亡の詳細でもなく。あえて「キミとボク」の部分に立ち帰って話がしたい。カヲルくんの話がしたい。小難しい設定とか庵野監督の私小説としてのエヴァとか、そういうことは置いておいて。シンジくんとカヲルくん、二人の心の在り方と関係について改めて考えたいと思い、こうして拙い筆をとるに至りました。

 TVシリーズのラストシーン「父に、ありがとう」「母に、さようなら」「そして、全ての子供達におめでとう」に集約されているように、エヴァンゲリオンを読み解くコードは、「父」「母」「子」だと考えています。
壮大でグロテスクなホームドラマ—エヴァTVシリーズ・旧劇場版(以降まとめて旧シリーズと呼称することもあります)において、シンジくんが渇望する父母の無償の愛情を補完してきたカヲルくん。
新劇場版、とくに本作シンエヴァでは、旧シリーズで彼がかぶっていた「父」「母」の理想像とも言うべき仮面に隠された、個の人格が見えたような気がします。共依存の親子のようだったカヲルくんとシンジくんにおとずれる関係の変化。そのとき彼の信奉者たる私がどう思ったのか。

 冒頭のキモチワルイポエムがフィルターの役割を果たしてくれていると思いますが、念のため。これは考察ではなく私情と偏見のみで構成された感想文です。

【注意書き】
※フロイト・ユング風の知ったか精神分析・なんちゃって心理学用語らしきものの断片も登場します。論点が専門的なところではないので、多少の心得違いについては、ご勘弁を。
※父、母、母性、父性等の単語には何らかの社会的な性別役割を強制する意図はありません。概念の話。
※カヲルくんとシンジくんの関係性の解釈にいわゆる「地雷」を持つ方は、読まないことをオススメします。
※現段階ではパンフ未読。


2.渚カヲル教穏健派

 漫画版・ゲームなどの派生も含め、「エヴァンゲリオン」という一大コンテンツのファンです。が、TVシリーズと旧劇場版の熱狂的フリークです。興味をもったきっかけは新劇場版の公開でした。新劇への理解を深めるために軽い気持ちで鑑賞した旧シリーズですが、アヴァンギャルドな表現、スピーディーな展開、生々しい心理描写、オタクよ考察してくれと言わんばかりの余白…etc.にぶん殴られ、心を揺さぶられ、あっと言う間に、頭の中身を支配されてしまいました。よって本文は、新劇ではなく旧シリーズに寄せた感想になっています。

 そうしてエヴァに囚われた私が「エヴァンゲリオン」という単語を発するとき、常にその言葉のイメージには渚カヲルがつきまといます。私にとって、エヴァとはカヲルくんのことです。それくらい第弐拾四話『最後のシ者』が与えたインパクトは大きかった。
美麗なビジュアルに、石田彰の声で紡がれる哲学的なセリフ。夕陽の射す水辺での出会いと心の触れ合い、そして、歓喜の歌をBGMにしたドグマでの対峙からラストカットのミサトとシンジの会話まで、めくるめく展開。『最後のシ者』って総合芸術として完成されすぎていませんか。そしてなんといっても旧劇場版。綾波とともに巨大化し、世界を呑み込んでいくカヲルくん。偉大なる、神聖なるカヲルくん!カヲルくん!

 そのイメージは、いつしか膨れ上がり、神々しく光り輝くようになりました。渚カヲルという存在への執着をこじらせた結果、神聖視し、もはや信仰心すら抱くようになったのです。
旧にしても新にしても、シンジに無償の愛を捧げ、自らの死を以ってしてシンジ、ひいては人類を救う姿は、まさに宗教的な意味合いでの「救世主」っぽさを帯びています!新劇場版では、なんと棺から「復活」なんていうモチーフまで出てきて、「罪と罰」の象徴であるDSSチョーカーを代わりに引き受けたりなんかして!ますますそれっぽいですよね!

まあ、私の個人的な感情や体験はともかくとして、カヲルくんは、単に「ミステリアスな美少年キャラ」として消費されるだけの存在ではないのです。

3.エヴァは親子の物語

 エヴァンゲリオンは、旧シリーズから一貫して終始「親子」の物語でした。アスカと母-弐号機、ミサトと父-父を投影した加持、リツコと母-亡き母を投影したMAGI、シンジとその養母としてのミサト。多様な親子の形が描かれており、かつ多重構造になっています。どの「親子」も一面だけでは、捉え切れません。

 その中で、常に物語の主流にあるのは、シンジ、ゲンドウ、ユイ≒レイのエディプスコンプレックスを思わせる関係性です。庵野監督自身も『スキゾ・エヴァンゲリオン』のインタビュー中で、エヴァの元ネタの一つである村上龍の小説『愛と幻想のファシズム』を指して「父親を殺して母親を犯す」エディプスコンプレックスの物語とし、エヴァ自体も「シンジが父親を殺して、母親を寝取る話」と述べています。
(大泉編、1997、p86)

 旧シリーズにおいて、シンジは、父親への愛憎入り混じった感情を募らせた末、「補完」の際、初号機がゲンドウを食い殺すイメージによって「父殺し」を成し遂げます。また、母ユイの魂を持つ初号機に乗り、時には内側に取り込まれ、ユイのコピーとも言える綾波レイと惹かれあいます。最終的には、母-ユイ(-初号機)-レイは、父-ゲンドウのもくろみを拒み、シンジの心と意志によって人類補完計画が遂行されることになるのです。 

4.カヲルくんはパパでありママである—旧シリーズにおける渚カヲル—

 TVアニメシリーズ24話目、最終回目前にして、唐突にこの歪な三角関係に割り込むのが、渚カヲルです。息子を捨てた父-ゲンドウ、幼い頃亡くした母-ユイの代理でもあるかのように、シンジくんに愛情を与えてくれるかのような存在です。その在り方こそが、結果的にシンジくんの精神崩壊の引き金となってしまうのですが…。

 私は、カヲルくんを、「父性原理」と「母性原理」を併せ持つ存在と見ています。「いい子」だけを我が子とし、条件に満たないものを切り離す厳格な「父性原理」、我が子であればすべて「いい子」とし、分け隔てなく包み込む寛容な「母性原理」。両方を備えたカヲルくんは、概念パパであり、概念ママだと思います。

 乗り越えるべき最後の使徒として立ちはだかり、人類の存亡と自身の命とを秤にかけ、シンジに選択を迫った「父性」。批判的に見られがちだった内向的な面を「ガラスのように繊細」と評して受け入れ、好意を示した「母性」に加え、シンジとの間の耽美な少年愛。これらは、父殺しと母との近親相姦を示唆していませんか?
なんと、他の登場人物を直接介することなく、カヲルくんとシンジくん二人の関係だけで、作品テーマの根幹にある「エディプス」を体現することができるのです!

 旧シリーズにおいては、ユイ、ゲンドウと渚カヲルが直接的に結びつく描写も多々見られます。

 まず、父-ゲンドウとカヲルくんについて。第弐拾四話『最後のシ者』にてドグマに潜っていくシンジくんのセリフ、「裏切ったな。僕の気持ちを裏切ったな。父さんと同じに裏切ったんだ」。これ「僕の気持ち」というところがポイントですよね!裏切られたのは、サードチルドレンとしての立場ではなく、個人の気持ちです。シンジくんが怒りを感じたのは、新しいパイロットを装ってネルフに潜入した敵だったという事実ではありません。ゼーレのスパイ、人類の敵という彼の立場が明らかになったからではありません。無償の愛を与えてくれる存在であるはずが唐突に手の平を返し、離れていった姿に、自分を捨てた父-ゲンドウを重ね合わせたからです。

画的に見ても、同話内にてカヲルくんを熟考の上、初号機で握りつぶす場面の構図は、旧劇26話『まごころを、君に』にて「補完」が発動されたシーンで、初号機がゲンドウを握りしめ、食い殺す場面の構図と酷似しています。

また、カヲルくんの「忘れることができるからヒトは生きていける」は、第拾伍話、ゲンドウの「ヒトは思い出を忘れることで生きていける」 という台詞とリンクします。息子との関わりを避ける父が、唯一心情を目の前で吐露したその台詞は、シンジの心に残り続け、カヲルくんとゲンドウを重ねるきっかけとなったのかもしれません。

 ユイとカヲルくんの台詞も重なる部分があります。ユイの「全ては流れのままにですわ」という言葉は「全てはリリンの流れのままに」に繋がるように見えます。このリンクについて、いくらでも考察のしがいがあると思うのですが、私は、碇ユイと渚カヲルの在り方に似通った部分があるような気がします。どちらもシンジの幸せを願い、生や死を超越したところで「流れ」を俯瞰している、掴みどころのない存在なのではないでしょうか。
また、ミサトさんは、カヲルくんの選択した死を「生きる意志を放棄して見せかけだけの希望に縋った」と評しました。しかし、人類の、そして、碇シンジの生き残る意志と未来に全てを託し、消えていったカヲルくんの最期。その姿は、人類の希望のために初号機に消え、最後はシンジに全てを託した、ユイに似ているように思います。

 そして第拾六話『死に至る病、そして』で使徒に取り込まれたシンジの回想に登場する「もういいの?そう、よかったわね」。
何かを差し出す幼いシンジにユイが語りかけたこの台詞。作中でたびたび登場することになります。遊び飽きた幼子に優しく問いかけ、「こんなことがあったんだよ」という無邪気なアピールを認め、肯定してあげる。そんな些細な親子のやり取りが「母」の象徴としてリフレインされていくのです。同話内でシンジを見舞ったレイが放った一言「そう、よかったわね」に、シンジはハッとします。その言葉に母親を想起したのです。そして、旧劇のクライマックス、サードインパクトの最中で再会を果たしたシンジにユイが語りかける「もういいのね」。

 「母」の象徴であるこの台詞をカヲルくんが発する場面が旧劇にあります。第26話『まごころを、君に』にて巨大な綾波を見て絶叫し続けるシンジの元に現れた巨大なカヲルくん。「もういいのかい?」そのたった一言と微笑みでシンジは安らぎの表情に変わり、「そこにいたの?カヲルくん」!シンジくんが最も欲していた言葉が、シンジくんの欠けていた心を補完するのです。
 
 ゲンドウ、ユイどちらにも繋がる描写も存在しています。

 第26話『まごころを、君に』の「補完」発動シーン。ユイ、そして3人のレイがゲンドウと対話する場に現れるカヲルくん。レイ同様にユイに連なる存在がカヲルくんなのだと読むこともできますし、私は長らくそう思っていたのですが、今になってみれば、ゲンドウ自身に連なる存在だから、ゲンドウの心を補完する場に現れたのだと考えることもできますね。
(ゲンドウがL.C.L.化した様子が見えないところを見ると、正確には「補完」はされていないのかもしれませんが)

 第一使徒「アダム」も父-ゲンドウと繋がる存在であることが示唆されながらも、「母」とも結びつく存在です。第弐拾四話ビデオフォーマット版に追加された描写。ゲンドウの手に埋め込まれた「アダム」。渚カヲルの魂は、その「アダム」のものです。同じくビデオフォーマット版で追加された、ゼーレとの会話の場面のカヲルくんの「シンジくんの父親、彼も僕と同じか」という意味深な言葉は、このゲンドウに埋め込まれた「アダム」を指してのものでしょう。
「アダム」という単語は、通常「男性性」と結びつけるもの。しかしながら、カヲルくんの「アダム。われらの母たる存在。アダムより生まれしものはアダムに還らねばならないのか」という台詞にもあるように、使徒の母胎回帰願望と結びつく、「母なる存在」です。カヲルくんの魂である「アダム」は、「父」に宿りながらも、「母」のイメージを持つ存在なのです。

 父-ゲンドウ、母-ユイ-レイ、子-シンジの歪ながら完成された三角形。ここに、父でもあり母でもあり、ゲンドウでもユイでもある、さらに言えば(本文ではあまり取り上げていませんが)もう一人のシンジでもあるカヲルくん-誰にでもなり得る可変的、流動的な存在である渚カヲルが割り込むことで、複雑な構図にしていたのです。

5.父親不在の物語

 先述のとおり、旧シリーズにおいては、私は、カヲルくんを父-ゲンドウと母-ユイと同一であり、父性と母性を兼ね備えた存在であるととらえていました。

 しかし、新劇場版、特に『シン・エヴァ』では、渚カヲルが父-碇ゲンドウとイコールな存在として置かれているような描写が多いように感じました。ピアノを好んでいるところ、シンジのカヲルくんは「父さんに似ていた」という台詞、「渚司令」のすがた、ゲンドウが電車から降りた後、それを引き継いで乗り込んでくるカヲルくんなどなど…。

新劇場版においても、シンジは、きっとカヲルくんのことをゲンドウが与えてくれなかった愛情を注いでくれる存在と捉えていたのでしょう。
そして「子供のため」と言い聞かせ、シンジを置き去りにし、失ったユイと再会するためだけに世界を我がものにしようとしたゲンドウ。「シンジくんを幸せにする」と言いつつも、その「幸せ」について本人と直接的な対話を避け、結局はシンジを「幸せ」にすることで自分が幸せになりたかったのだと指摘されたカヲルくん。
シンジのためと言いつつも、何がシンジのためになるのか、直接話し合うことはなく、自身の目的のために世界を変えようともがいていた。2人の生き方はよく似ています。どちらも、外に向けた態度とは裏腹に、実は不器用で臆病で寂しがり屋で子供っぽいんですね。

 ところで、旧シリーズの頃、よく庵野監督は「ゲンドウはいらない」と言っていたそうで。このへんは『パラノ・エヴァンゲリオン』のスタッフ座談会「父親と母親」という項目に詳しいのですが(竹熊編、1997、p139〜p143)、当初は監督は「父と子の葛藤」を描きたかったのに、次第に、ゲンドウがストーリー進行の邪魔になってきてしまったらしいのです。鶴巻氏はそれを「どうやっても父性が欠如してしまうというのは、庵野さんのキーワードかな」と評しています。(竹熊編、1997、p143)
「父親」の抑圧に反発しつつも、期待に応え、乗り越えていくことで主人公が成長するというテッパンの話にするつもりが(第拾弐話『奇跡の価値は』くらいまではまさにそういう話だった気がするのですが)、「父性」が希薄になり「母性」が色濃くなってしまったと。もとは、物語に「父性」を体現する装置としてゲンドウを置いたにも関わらず、「父性的」なものは「母性」の中に埋没していき、結局「父親」不在の物語になってしまったようなのです。

 旧シリーズの碇ゲンドウは、「父」として置かれていたことは確かですが、その「父性」は機能不全のまま終わってしまいました。
 では、新劇場版では「父性」は発揮されていたのか、うまく機能していたのかというと、個人的には少し疑問に思います。
旧作に比べ「父と子の葛藤」にかなりのウェイトを割いて描いていることは確かです。『序』では、ミサトさんの「自分の子供を信じてください」の言葉通り、シンジの決断を受け入れる様が描かれます。また、『破』では、レイ主催のシンジとの食事会に参加を決め、さらにはシンジに「大人になれ」と諭します。冬月は、事あるごとにゲンドウに「息子のためか」と問いを投げかけ、それをゲンドウは明確には否定しません。

旧シリーズではあまり見られなかった父親としてシンジに接しようと試みる「大人」の姿がそこにはあるように見えました。しかし、『シン・エヴァ』終盤、対峙したゲンドウ自身の言葉からその内面が語られると、厳格な「父」としてのイメージは、たちまち消え去ってしまいます。ユイに縋り、シンジに怯える哀れな「子供」がそこには現れます。シンジの心象風景-電車の中には、シンジくんによく似た容貌の「少年」が頭を抱えて座っているのです。

 ネブカドネザルの鍵を手にし、ヒトを超えた存在になったゲンドウ。『序』から示唆されていたように物語の「反復」「円環」の記憶を保持するカヲルくん。2人は、別の世界-オタク用語で言うところの別の「世界線」を知覚できる可能性が示されたという意味で、作中におけるメタの視点、いわば「神」の視点を獲得しました。ゲンドウはユイに再び会うこと、カヲルくんは「シンジくんを幸せにする」ことを目的とし、ヒトを超えた力で世界に抗います。

「円環」「反復」によって、世界のリセットが行われている、すなわち生や死の一回性が失われているということ、そして別の「世界線」の存在の示唆、私にはこれらは極めてゲーム的な感覚に思えました。加えて「神」の視点を得た者が、作中に2人存在するという事実。
新劇場版って、碇ゲンドウ・渚カヲル、2人のプレイヤーがおのおのの目的のために競い合うゲームのような構造をしていませんか。
ゲンドウの服装、ポジションそのままを再現するような様子で「渚司令」と呼ばれていたカヲルくんを見た時、そうか、碇司令と渚司令という2人の司令=プレイヤーの戦いだったのね、と妙に納得してしまいました。

2人の司令は、ヒトを超えた視点を得て、自身の思い通りに世界を変えようと、すなわち真の「神」として世界を統べようと試みます。しかし、双方とも、ゲームの勝者になることはありません。
2人が本来望んだ形ではなく、〈現実〉の中で立ち直ったシンジ自身の意志を以って世界は書き換えられます。2人は新たなる世界の「神」すなわち物語上における「父」となることに失敗してしまうのです。
 
 新劇場版において「父」として置いたゲンドウ、カヲルくんですが、ともに「父性」としては機能不全に終わります。2人とも「父性」とイコールになりきれてはいなかった。ゆえに私は、新劇場版も旧シリーズ同様、父親不在の物語である(少なくとも主人公碇シンジの物語においては)という感想を抱きました。

 「エヴァ」は、新も旧も「母」が強い力を持つ作品だと思います。母親が宿り、我が子のために暴走する決戦兵器。母-碇ユイのコピーたる巨大な綾波レイの姿をした地母神が、地球全土を呑み込んでいく姿。たとえ、父親と息子の関係に焦点が置かれても「母性」こそが世界を支配するという世界観そのものは変わらないという印象を受けます。
さらに、次項以降で語りたいのですが、「エヴァンゲリオン」という作品において「愛」は、たいていの場合、「父」ではなく「母」の顔をしてあらわれるのです。

6.残酷な天使のテーゼ

 新劇場版において「父」として物語に置かれた存在であっても、カヲルくんに威圧的・権威的なイメージはなく、ただひたすら無償の愛でシンジくんを包み、その幸せを願う、「母性的」な存在であるように感じました。
TVシリーズのように、突如として刃を向けることも、命の選択を迫るようなこともありません。強いて言えば、『Q』でシンジがニア・サードインパクトのトリガーとなったという事実を淡々と告げる場面が「父性的」なような気もしますが。カヲルくんは、慈愛に満ちた笑みでシンジくんの全てを肯定してくれる「母性」に溢れたキャラクターだと認識しています。

 彼は本作で、定められた円環の中で演じることを永遠に繰り返す存在だと語ります。そして、シンジくんを幸せにしてあげたかったのだと。その言葉には、一見、永遠のループへの絶望とそこから抜け出したいという願望が込められているように感じます。
しかし、きっとカヲルくんはシンジくんが自分のことを必要としない世界なんか望まなかったし、想像できなかったのではないでしょうか。シンジくんが成長を果たし、エヴァに依らない自己実現を果たすことを「幸せ」とは思わず、円環の中に閉じ込めてきたのは、実質彼なのではないでしょうか。

 もちろん、シンジくんがレイやアスカ同様に「エヴァ」を通じて自分の居場所を見つけていたのを、理解者であるカヲルくんは感じとっていたのでしょう。シンジくんはもちろん、カヲルくんも含めて、エヴァは「エヴァ」に依存する子供達の物語です。加えて「エヴァ」を利用すれば、シンジくんのために世界を作り変えることすらできることを、使徒であり「エヴァ」のなんたるかをよく知るカヲルくんならいつも念頭に置いていたはず。だから、シンジくんは「エヴァ」を通じてしか幸せになれないと「誤解していた」というのも理由のひとつでしょう。

しかしながら、渚カヲルを必要としない碇シンジの「幸せ」は渚カヲルにとっての「幸せ」ではなかったのではないでしょうか。エヴァンゲリオンが存在せず、渚カヲルがキーパーソン・使者として機能しない世界での「幸せ」、すなわちカヲルくんが介在しない「幸せ」など、彼の中ではありえなかった。彼は、加持さんが指摘し、本人も認めたように、シンジくんを通じて自分が幸せになりたかったのです。
自分の腕の内に愛するものを永遠に閉じ込めておきたい。私には、それがどんな我が子でも「いい子」とし抱擁する代わりに、子を己の内に閉じ込め成長を妨げてしまう「母性」の愛情のエゴそのもののように思えるのです。

 『シン・エヴァ』でゲンドウがシンジに向けた愛情もどこか「母性的」な色を帯びている気がしました。
 旧シリーズから何度も登場する泣きじゃくる幼いシンジのイメージ。駅に置き去りにされ、愛に飢えて泣いていたあの子。
『シン・エヴァ』終盤、ゲンドウは、心象風景の中で、過去、駅に置き去りにした幼いシンジを抱きしめます。泣き続ける子供の成長を促して大人にするのではなく、そのままを受け入れ、抱きしめる。そこには、未成熟な幼子を切り捨て導く「父性」ではなく、全てを包み込む「母性」を感じます。
シンジがずっと必要としていた愛情、ゲンドウが与えるべきだったのは「母性」的な愛情だったのではないでしょうか。ゲンドウはユイから「母性」的愛情を受け継ぎ、幼いシンジに注ぐべきだったのに、それを放棄してしまっていたのかもしれません。
そして、抱きしめたシンジの中に、ゲンドウはずっと探していたユイの姿を見る。2人の間に交わされる愛はユイ、すなわち「母」の形をしているのです。

 私にとって、心象風景の中でゲンドウが抱きしめ、カヲルくんに「仲良くなれるおまじない」をかけたのは、14歳ではなく、大人でもなく、あの幼少期のシンジであったことは印象深いです。

カヲルくんが「いつもと違うね。泣かないのかい?」と言ったのは、もしかしたらずっと前から、彼には14歳のシンジくんの中に、親に捨てられて涙を流し続ける小さな子供の姿が見えていたのかもしれません。

あの一連の場面は、泣き叫び続けるシンジのインナーチャイルドという意味でも、ゲンドウの犯した過ちの決定的瞬間という意味でも、幼子の姿でなければいけなかったのでしょう。しかし、現実の中で立ち直り成長を遂げたシンジを前にしても、ゲンドウとカヲルくんの中のシンジは幼子のままであったこと。
そこに私は、うまく言葉にできないのですが、「親心」のようなものを見てしまいます。子どもは、親の心の中では、きっと幼子のままであり続ける、いや、いてほしいという願望の現れでもあるのかなあと。

「少し寂しいけど、それもいいね」と、カヲルくんは少し声を震わせながら、シンジくんの決意を受け止めます。この成長したシンジに向ける「寂しさ」は、奇しくも旧シリーズのOP『残酷な天使のテーゼ』で歌われていた、いつしか大人になり、愛の揺りかごから飛び去ってしまう「子」に寄せる「母」の気持ちと少し似ているような気もします。
きっと、あの幼いシンジくんは、2人にとって『残酷な天使のテーゼ』にある、世界中の時を止めてでも閉じ込めておきたい瞬間だったのだろうなと、つい勝手に感傷に浸ってしまいました。

 若干ゲンドウの話の割合が多かったような気がするのですが、そういうわけで、私は碇シンジの物語において、渚カヲルの愛は「母」の形をとって現れているように思ったのです。
「父」を体現する舞台装置として置かれたゲンドウが最後の最後に与えた愛情は「母」の形をしており、ゲンドウに繋がる存在として描かれたカヲルくんもまた、シンジくんが欲する「母」の愛を補完しているのだと思います。渚カヲルは、旧シリーズにおいてもそうだったように、「父」であり「母」でもあるのです。

7.カヲル離れ

 旧シリーズからカヲルくんのことは、エディプス的な構造を体現する存在であり、「父性」「母性」として見ていたので、カヲルくんとシンジくんの関係は擬似親子と示されても、個人的には特に違和感や拒否感はありません。ただ、そうだな、擬似親子とするならば、「親離れ」「子離れ」もあって然りだなあ、そうだよなあと、"少し寂しく"思いました。

 あくまで一般論ですが、親が子の「幸せ」を願うとき「イイ大学に入ってイイ企業に入社しイイ人と結婚して…」などなど、自分の思う「幸福」の形に当て嵌めてしまうことは多々あると思うのです。
愛する対象に自分を同一化して、自分自身の「幸せ」を相手の「幸せ」だと勘違いしてしまう。いや、これ、親子でなくともよく起こり得ることですね。大好きな誰かと一つの存在になりたい、同一のものになりたいという欲望の表れなのでしょうか。

両親から十分に与えられなかった愛情をカヲルくんに求めたシンジくんですが、カヲルくんもまた愛するがゆえの同一化の欲望をシンジくんに向け、依存していたのでした。
だけど、結局シンジくん本人にしか「幸せ」の基準なんて分からない。親子であれ、友人であれ、恋人であれ、自分以外の人間は「他者」でしかない。どんなに愛していても、相手はどうしようもなく自分とは違うニンゲンです。だからこそ、相手から自分を分離しなければならない。ひとつの存在から切り離して「個」にならなければならない。

 旧シリーズでは、「親離れ」「子離れ」は分かりやすくかつ過激な物理的に「殺す」という行為を以て遂行されました。しかし、『シン・エヴァ』においては、「完璧な父/母」の仮面を外されたカヲルくんが内面を曝け出し、それをシンジくんが受け入れることで為されます。
シンジくん自身の決める「幸せ」とカヲルくんが求めていたシンジくんの「幸せ」が違うものであることを認める。カヲルくんにも自分自身のために「幸せになりたい」という「エゴ」が存在していて、シンジくんとは異なる存在、「個」であるということを受け入れる。そうして、同一の存在から真の「他者同士」として分離することとなるのです。

今まで「渚カヲル」という存在を定義するにあたっては、彼と「碇シンジ」との関係性への言及が不可欠だったと思います。しかしながら、今回、碇シンジという人物なしには語ることのできなかったカヲルくんが、別の人物とも濃い関係性を築き得ることが示されました。加持さんと親しげに言葉を交わす様子は、多くの人に衝撃を与えたに違いありません。そういう意味でも「碇シンジ」という存在から「渚カヲル」が分離する瞬間が描かれたと言ってもいいでしょう。

 いつも悠然と構えていたカヲルくんがシンジくんを「幸せにしてあげたかった」と涙を流す姿、先述の加持さんを「リョウちゃん」と呼ぶ様子。『シン・エヴァ』の短い登場時間の中でカヲルくんはほんとうに莫大なインパクトを残していきました。いずれも今までのカヲルくんのパブリックイメージ、ミステリアスな美少年像からは離れたものでドキリとしました。

今思えばこれは、「親」や「先生」のような周囲の「大人」が急に一人の「人間」として見える瞬間のあの驚きに似ている気がします。ありませんか?そういうこと。私個人はハイティーンくらいから、自分の親のことをしょうもない人だなあとか、かわいそうな人だなあとか…妙に客観的に見てしまう瞬間が出てきました。
子供の頃は素直に周囲の「大人」が演じる社会的役割そのものしか見えない。でも、「大人」に近づくにつれ、周囲の「大人」の仮面が剥がれて素の人格が透けて見える瞬間がある。それが『シン・エヴァ』には描かれているように思います。

カヲルくんに限らず、ゲンドウにも当てはまることですね。マイナス宇宙の中で自分の内面について長々と語り始めたとたんに、威厳ある司令ではなく、情けない一人の男の姿が現れてしまう。そして、シンジくんはそれを全て受け止めてあげるわけです。

『シン・エヴァ』の感想やレビューを見ると、「大人になる」というワードがよく登場するのですが、シンジくんが「大人」になって見えるようになった景色が、カヲルくんのあの素の姿なのかなあと思いました。
それが「親離れ」であり、決定的にカヲルくんが「他者」になった瞬間でもあります。「他者」になると言うと、どことなくよそよそしい感じがしますが、カヲルくんとシンジくんが新たな世界で出会い、また新しい関係を築くことができるのだと、私は信じています。そうだね、また会えるよねカヲルくん。

8.渚

 これは、ここで私が主張したこと全てに対する逃げと保身なんですが、エヴァの世界観や設定を、矛盾なく厳密に仕分けるなんて真似は、基本的に不可能だと思っています。
自己と他者の区分を無くして、人類を一個体にする人類補完計画に象徴されるように、異質なものどうしの境界が溶けあって、ひとつの作品を形成しているのがエヴァなので。エヴァンゲリオンというコンテンツ自体L.C.L.の海です。

 男と女、使徒と人間、自己と他者、虚構と現実、愛と憎など、相反するはずの要素。そして、過去未来現在、異なる空間どうし。異なる世界線どうし。これらの境界が、物語が進むにつれて、曖昧になっていく。
シンジくんの心象風景なのか現実なのか、はたまた第四の壁をぶち破って我々視聴者がいるほうの現実〈いま、ここ〉を指しているのかも分からない場面が多数登場します。

この境界の曖昧さは、映像技法でも存分に発揮されていますよね。エヴァの編集は実にキレッキレで、別々のシーンを組み合わせてツギハギにしても全く違和感のない一個の映像作品として成立します。
曖昧は曖昧のままにする純文学スタイルの旧シリーズに対し、新劇場版は大衆向けに整理整頓してる感じはありましたが、『シン・エヴァ』の終盤に旧シリーズや実写の映像がコラージュされてるのを見ると、そのスタイルは健在なのねと嬉しくなりました。

継ぎ目と継ぎ目、境界が溶け合い、一個体となる。渚カヲルもまた、流動し、溶解していく境界線の上に存在しています。
使徒と人間、はじまりとおわり、旧い世界と新しい世界、そしてもう一人のシンジであるという意味でも自己と他者。
ちょうど『シン・エヴァ』で加持さんが「渚」という名を指して「海と陸の狭間」と評したように、彼は境界そのものなのかもしれません。ここで私がさんざん語っていた「父性」と「母性」もまた溶け合って分化できずに在る要素の一部に過ぎません。
私にとって、渚カヲルという存在は、たとえ聖性をなくしても、分類することができない、永遠の神秘です。

終劇

引用・参考文献

【引用文献】
竹熊健太郎編(1997)『庵野秀明 パラノ・エヴァンゲリオン』太田出版
大泉実成編(1997)『庵野秀明 スキゾ・エヴァンゲリオン』太田出版

参考文献は、検索避けのため画像で提示します。

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