忘れられない監督からの一言~そして未来へ~
この方をご存知だろうか?
私の母校”四中工”こと四日市中央工業サッカー部二代目監督の
樋口士郎さんです。(詳しい実績等は以下Wikipedia参照)
そう、私が現役時代の監督です。
我々”四中工”の選手は、尊敬の念を込めて『士郎さん』と呼んでいます。
※以下、士郎さんと表記
沢山のプロ選手を輩出している”四中工”で、更に毎年100名以上選手がいる中で、士郎さんが私について覚えている事は少ないだろうし、語る場面もないと思います。
今回は、”監督 樋口 士郎”によって『自分がどう変化したのか?』を少し振り返ってみたいと思います。
90年代の高校サッカー界
私が現役高校生だった頃(1997年~1999年)は、まだまだ”気合い””根性””走り込み””怒号””罰則”等が、全国中で正当化され、堂々と横行してた時代です。
強豪校の監督と言えば、強面の方が多く、それぞれの監督によって様々な伝説のような話を耳にする事も多かったのです。
普段の練習でも、前述の通り走り込みは当たり前、現在では当たり前になっている週に1回のOFF等もってのほか、OFFは年に数日といった高校がザラだったと他校の選手から聞いています。
そんな時代に、我々”四中工”は、
①毎週月曜日は原則OFF
②練習時間は2時間(16:00-18:00)
③朝練はフリー(内容が自由で強制されない)
④練習中の敬語はなくても良い
⑤監督・コーチの呼び方は○○さん
等、現在では当たり前のように感じる事も、当時の世の中的には考えられないほど”先進的”だったように思えます。
これらは全て、士郎さんが前任の城先生から監督を引き継いだ時に始まったと聞いています。
※週1のオフについては、現在私の社長である中田一三さんと、レフティーモンスター小倉隆史さんが提案したと聞いています。(諸説あり)
これらの少しのルールを見ただけ、士郎さんの”人柄”がイメージ出来るのではないでしょうか?
出会い
中学3年生の夏、高校進学について自分は悩んではいなかった。
県トレセン等には選ばれていたものの、三重県伊賀市という盆地暮らしの少年には、つい数年前に”四中工三羽烏”を擁して全国制覇した”四中工”に、
自分が進学する等、今振り返ると
「到底考えもしていなかった」といった方が正しいと思います。
そんな中、当時の中学サッカー部顧問だった真島先生(後に三重県サッカー協会技術委員長等を歴任)に、
「いいから一回練習に参加してきたら?」
と言われ、時期的にはとても遅い9月末頃に練習参加したのを覚えています。
そこで私は衝撃を受けます。
私のような中坊を、選手権予選真っ只中のTOPチームの練習に参加させて頂きました。
まず、グランド入って感じた事は、
「この殺伐とした感覚はなんだ?」でした。
自分が今までサッカーをしてきた中で、味わった事のない緊張感がそこにはあった。
そんな雰囲気に圧倒されがらも、下手糞ながらも必死にトレーニングをこなしていると、こんな声を沢山耳にする事に気付いたのです。
『すばらしい』
選手同士で、また監督・コーチから、この「素晴らしい」という声が次から次へと飛びかっていたのです。
最初、自分は「馬鹿にされている」と思っていました。
何故ならば、今まで生きてきて「素晴らしい」という単語を使った事がないし、他人から言われた経験もなかったからです。
その後も、自分が少しでも良いプレーをすると「素晴らしい」と声をかけて頂き、とても嬉しい気持ちと同時に
『ここで絶対プレーしたい!!』と強く思うように変わっていきました。
”四中工”に関わる全ての方々はご存知でしょうが、何を隠そうこの
『素晴らしい』こそ”士郎さんの口癖”なのです!
その”口癖”に引き寄せられるように、私は”四中工”への進学を決めました。
優しさと厳しさ
他の高校の選手に良く言われた事です。
『お前らの監督、やさしいよね』
前述の通り、今までにない新しい制度を取り入れたり、むやみやたらに走り込みをさせたりもしない、試合中のコーチングでも声を荒げたりすることもなく、その甲高い特徴のある声で、
『いいよいいよ~!』
『ファイン』
『来たか!』
『やったか!!』
と、大きなジェスチャーも交えて笑顔でベンチにいる士郎さんを見れば、みんな”優しい監督”なんだなと思うのも当然である。
そして、それは事実です。
しかし、その”優しさ”と相反する”厳しさ”の基準の明確さと、使い分け方が絶妙な所が、士郎さんが素晴らしい指導者であり、日本代表選手やその他にも沢山のプロ選手を輩出させる事が出来た”一つの要因”なのではないかと思っています。
常に観てくれているという安心感
校舎3階の社会科職員室の窓には、常に士郎さんの影が映っていた事を鮮明に覚えている。
TOPの試合が終わった後の、控えメンバーの練習試合、Bチームや1年生の試合等、恐らく直接観戦可能な試合は全て観ていたのではないだろうか。
後に、当時のスタッフに話を聞いたが、週末の別活動の際には、その報告だけで2.3時間電話で話す事も多かったようです。
『〇〇はどうだっか?』
『○○が良かったよ!』
『次は○○を出してみようか!?』
というような内容ばかりだったそうです。
100人以上いるサッカー部は、全国に沢山あると思いますが、ここまで全選手を監督自身が把握して、選手一人ひとりの成長を望んでいる監督は、なかなか存在しないのではないでしょうか?
さて、前置きが長くなってしまいましたが、ようやく今回のテーマに触れていきます。
ターニングポイント
私自身はプロ選手になった訳ではありませんが、高校時代は1年生からトップチームに帯同させて頂き、
1年生時に全国高校総体(ベンチ入り)
2年生時に全国高校総体(ベンチ入り)、全国高校選手権(ベンチ入り)
3年生時に国民体育大会(スタメン)、全国高校選手権(スタメン)
と、最後は試合に出場する事が出来ました。
3年生になるまで、スタメンを勝ち取る事が出来なかったのですが、
私が3年生の時の1学年下には川本良二(現J2金沢GKコーチ)が控えており、常に出場の機会を虎視眈々と狙われている状況が続いていました。
2年生でスタメンを勝ち取れなかった私でしたが、1998年度の高校サッカー選手権が終了した後の2月の事でした。
当時は現在のようにリーグ戦文化がなく、週末は練習試合、長期休暇はフェスティバル形式、そして公式戦はトーナメント方式が基本でした。
そんな中、中日本スーパーリーグという大会が企画され、我々”四中工”もそのリーグ戦に参加していました。
まだ、誰がスタメンのGKを勝ち取るかわからない状況で出場した、松商学園(長野県)との試合が、私にとってのターニングポイントとなります。
「ここで結果を出して、スタメンを勝ち取ってやる!!」
と息巻いて出場したものの、前半でミスを連発する。
なんとか失点は免れれたものの、自分のパフォーマンスは誰が見ても”不安定なGK”そのものだったと思います。
試合中も、「アカン!何でや!やばい!怖い!取り返さな!」と、頭の中はまさにパニック状態でした。
『いつもの荒木さんでいったらいいやんか』
そんな状態で戻ってきた私は、ハーフタイムの指示もろくに耳に入っていない状態でした。
気付けば後半開始を促す審判の笛の音が聞こえました。
「このままでいいのか?」と思った私は、普段はあまりアドバイスを直接求めた事はなかったが、士郎さんのもとに駆け寄りこう聞きました。
『思ったプレーが全然出来ないです。僕はどうしたら良いですか?』
そんな私に対して、士郎さんは少し驚いた表情をしましたが、すぐに”ニコッ”とほほ笑んでこう言ってくれました。
『なんや(笑)どしたんや(笑) いつもの荒木さんでいったらいいやんか!』
技術的・戦術的な話を求めていた自分にとっては少し拍子抜けする回答でした。
でも、その瞬間に”肩の力がフッと軽くなった”のがハッキリと分かりました。
信用されているというチカラ
これは士郎さん本人に聞かなければわからない話ですが、
その時に私が感じた事は、
「いつも自分の取り組みを見てくれていて、それを信用して選んでくれているんだな!」
ということでした。
その後、後半戦は4度の決定機をファインセーブで防ぐ事が出来ました。
試合終了後、ベンチに戻ると士郎さんがこう言ってくれました。
『なっ!いつも通りで大丈夫やったやろ!?』
選手と指導者の立ち位置の考え方
私が尊敬する指導者に、”関本恒一”さんがいます。
※関本さんのお話しについては、また別の機会にお伝えしたいと考えています。
指導者として歩み始めたばかりの私に、関本さんはいつもこうやって教えてくれていました。
『選手と指導者は、どっちが上とか下とはないんや。』
『同じ”サッカーを愛する者”として、同じ立場なんや。』
『たまたま、”プレーする側”と”教える側”に分かれてるだけなんやで。』
これは憶測の話になりますが、これは関本さん単体の考えではなく”士郎さん”の考えなのではないかと思います。
何故ならば、関本さんは士郎さんから多大な影響を受けたと自分で話していたからです。
この考えは、今でも私の指導者としての”根本的な大原則”として、強く胸に刻み込まれています。
情熱ある指導者の育成
四中工には”基本理念”が存在し、全ての活動はこの”基本理念”のもとに進められています。
この”基本理念”も、士郎さんが監督に就任した際に掲げられ、監督を退任された今でも引き継がれているものです。
目標は2つ
①ワールドカップで活躍できる選手を育成する
②情熱あるいい指導者を育成する
結果で言うと、ワールドカップには3名出場(中西永輔さん、坪井慶介さん、浅野拓麿さん)しているし、
情熱あるいい指導者は、名前を挙げればキリがないほど、三重県内はもちろん、日本サッカー協会をはじめとして全国で活躍されております。
恐縮ながら、自分も”その中の一人”としてカウントさせて頂ています。
伝統とはなんなのか?
こうして脈々と引き継がれてきた、基本理念をもとにした”伝統の継承”はいつまで続くのか?
そもそも”伝統”ってなんなんだ??調べてみました。
伝統とは、、
→昔からうけ伝えて来た、有形・無形の風習・しきたり・傾向・様式。特に、その精神的な面。
最後が非常に重要だと思いました。
やっぱり”メンタル”なんだなと。
しかもそれらは”無形”である事が多いのではないでしょうか?
そういった”無形の思い”を継承し、更に高みに引き上げていく為には、前述の様な基本理念が必要なんだと結論が出ました。
こんな事を言ったら怒られるかも知れませんが、士郎さんが最初からそこまで考えていたかどうかは分かりません。
しかし、士郎さん自身が感じてきた伝統や、城先生から受け継いでこられた”指導者たるはなんなのか?”という”無形の思い”が、基本理念として”有形の財産”として残り、ここまで存続している事は間違いのない事実だと思います。
選手を変える一言は、何気のない一言
私の選手時代のエピソードを先程紹介させて頂きましたが、あのやりとりを士郎さんが覚えているとは思えません。
でも、間違いなく”その瞬間の私”に影響を発揮したし、その時の経験から”今の私”にも影響を与え続けています。
士郎さんは、25年後の私に向けて発してくれていたのか?
答えは恐らく『イエス』です。
でも、それはピンポイントに25年後を狙った訳ではないと思います。
常に考えられている事は、
”基本理念に基づく人格形成”であったように思います。
私のような、高校時代に結果を出した訳でもなく、ましてやプロになった訳でもない自分が、今こうして指導者として仕事をしているという事は、
士郎さんのこういった”指導者としての在り方”自体に影響を受けたんだと思えるようになってきました。
次は、私が”それ”になる番が来ているのかも知れません。
しかし、それは”白々しく装ったモノ”ではなく、自分自身が常に
”基本理念に沿った生き方”
をしていく必要があると思います。
『自立・自律』
いつまでも、自己を成長させる事を止めず、30年後にどのような人達に囲まれて生活しているかを、少しイメージ出来たような気がします。
最後になりますが、
『士郎さん、いつまでも元気にピッチに立ち続けて下さい!!』
最後まで読んで頂き、誠にありがとうございました。