巻頭言――「心を考える」を考える(仲嶺真)
『Re:mind Vol.1』を出版してから約1年が経った。1歩目を踏み出すのも大変勇気がいることだが、1歩目を踏み出したからといって2歩目を簡単に踏み出せるわけではない。その意味で、無事に『Re:mind Vol.2』も出版できて安堵している。引き続き、3歩目、4歩目と、歩みを続けていきたい。
『Re:mind』は「心を考えること、心を通じて考えること」を目指して創刊された心理学批評誌である。本誌は「心をもういちど考え直すために」つくられた。そのため、心「について」はさまざまな観点から考え直されているし、これからも考え直していく。ただ、そもそも「心を考える」とはいったいどういうことだろうかと最近よく考えている。
心「について」考えているものはたくさんある。たとえば、心の哲学は「心とはいかなるものか」について考えているし、心理学も心について、心の哲学とはまた違った観点から考えている。しかし、「心を考える」そのものを考えているものはあまり見当たらないように思う。
「心を考える」とはいったいどういうことか。私としては、差し当たり、「余白をつくること」なのではないかと考えている。
たとえば、せかせか動いている人がいたとする。注意力も散漫である。「もしかしてADHD(注意欠如・多動症)?」。そう思ってしまうと、とたんにその人が「障害を持っている人」に見えてくる。しかし、たとえば、その人はやりたいことがたくさんある人だと知ったとしよう。そうすると、「いろいろと取り組まないといけないことが多いのかな」「やることが多すぎてテンパっているのかな」というように、障害以外のさまざまな可能性とともに心を考えられる。
たとえば、目の前でAさんが些細なことに怒っている。自分の気持ちに余裕がなければ、「なんだこいつは」と思ってしまうかもしれない。しかし、余裕があれば、「Aさんはなぜ怒っているのだろう」と考えることができる。この気持ちの余裕にはもちろん、時間の余裕もかかわっている。たとえば、大事な商談に遅刻しそうで焦っているとき、周りの人の心を考えている余裕はないであろう。
たとえば、とある読書会で本を読んでいるとき、「恋とは、異性に対して思いこがれることである」とさらりと書いてあったとする。何も気に留めない人もいる中で、読書会の参加者の一人が、「私は、異性に対して思いこがれることはないですが、同性に対して思いこがれることはあります」と感想を述べたとする。すると、「恋とは何なのだろう」「好きとはどういうことなのだろう」と考え出すことができる。そのためには、「異性愛が絶対である」という規範に縛られないことも必要であり、そのような環境づくりも必須である。
これらの例が示すように、「心を考える」には「余白をつくること」がセットである。「余白をつくる」とは物語や文脈をつくることであり、状況的あるいは時間的ゆとりをつくることであり、他者と気兼ねなく会話することであり、気兼ねなく会話できる場所をつくることである。
『Re:mind』は「心を考えること、心を通じて考えること」を目指している。そのため、本誌の内容は、心を考えることをテーマにしている。だが、それと同時に、「心を考えること、心を通じて考えること」を読者とともに行いたいとも思っている。そのため、『Re:mind』には「余白」がある。今号でいえば、心理学批評誌といいながら、執筆者の顔ぶれは、大学等の研究機関に所属する心理学者に限らないし、むしろそうした執筆者の方が少数派である。学問(理論や研究)の話もありながら実践の話もある。執筆者が多様にいるのも、「余白をつくる」ためである。
『Re:mind Vol.2』も唯一無二の書籍になった。本誌もまた心をひろく考える土壌を培う礎となるであろう。