【試し読み】新しい―教―材―論(New―Teaching―Material―ism)(楠見友輔)
教育における物と人間の切り離せない関係
本稿の目的は、教育における物と人間の関係を問い直すことで、「人新世」と呼ばれる時代における教育を捉え直すことにある。
古来、人間は物と共に生きてきた。アンリ・ベルクソンは次のように人類の特徴を物の製造と使用に見ている。
西洋の哲学史において、人類は知性を持つことによって他の生物と区別された特権的な地位に置かれ、自然を外部から支配することができると考えられてきた。これに対してホモ・ファベルとしての人類は不完全であり、それ故に物と本質的に共存している。ベルクソンがこのように人類を捉えるのは、その本質を、物との多様な結びつきを通して自己変容する「創造的進化」に見出したからである。
人類が生きる上で一つの重要な機能を有してきた「教育」において物が重要であったことは、「教」という漢字から見て取れる。「教」は「爻」「子」「攵」の三つの部分から成っている。「爻(コウ)」は「交わる」という意味であるが、「千木形式(神社の屋根の上で×印になっている部分)の建物」という意味もある。この点に注目すると、「教」という字の偏は建物の下で子どもが学んでいる形に見えてくる。旁の「攵(ボク)」は「攴(ボク)」とも書かれるが、これは棒状のもので打つことを意味している。「教鞭をふるう」という言葉があるように、昔は大人が子どもに教える際に、棒や鞭で子どもを叩いていたことが文字の形状から読み取られる。このように、「教」という漢字の中に、教育が営まれる場である建物と、教育をする際に使用される道具という二つの物が含まれている。このことは、古くから、教育のイメージが物と結びついていたことを示唆している。
では、物は教育においてどのように機能するだろうか。よく用いられるのは、「物は媒介物だ」という表現である。物が教師と子どもや文化と子どもを媒介すると言う場合、教師と子ども、文化と子どもの間に物が置かれることで、本来切り離されて存在している二者間の交流が促進されると考えられているのである[注2]。
ただし、媒介物という特徴は、物の可能性を十分に引き出しているだろうか。物を媒介物という存在に還元すると、教師と子どもや文化と子どもは特定の関係に固定化される。これに対して本稿では、物と人間の異なる関係を検討する。
本稿の前半では、日本の教材の歴史研究を参考にしながら、教育における物(特に教材)の機能を分析する。このような作業を通して、モダニズムの教育観の特徴と限界を顕在化させる。後半では、物と人間の関係を再考するために、現代思想の一つであるニュー・マテリアリズムの理論を用い、「教材」の「材(material)」としての特徴に注目して伝統的な教育観を問い直すことを試みる。
……(続きはRe:mind Vol.2にてお読みいただけます)
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