すべてはその本の中に
年中不定期に吹き荒れる強い風とは別に、一年のうち数日だけ嵐のように風が吹き抜ける時期がやってきた。
この時期が来ると私はいつも思い出す。
「じゃあ迎えに行ってくるね」
そう言って街を出て行った彼の後ろ姿を。
あれから何年たったのだろう。
彼がいなくなっても街には相変わらず風が吹き荒れているし、人々は飽きることなく不満を口にしながら変わらない毎日を過ごしている。
彼は今、どこで何をしているのだろう。
私は顔を上げると、風にたなびく洗濯物の向こう側。広大な砂漠の遥か向こうにいるであろう彼に想いを馳せた。
小麦色の肌をした彼とは小さな頃からの付き合いだった。
外を走り回る私とは対照的に、いつも彼は静かな場所で本を読んでいた。そして私の遊びがひと段落した後、その日読んだ本に書かれていたことを嬉しそうに話す彼の話を聞くのが私の日課だった。
「テア、知ってる?この世界にはね、なんでも本に閉じ込めてしまう神様がいるらしいんだ」
ある日、小高い丘の上で夕焼けを見ながら彼は私にそう言った。
「本に閉じ込める?なにそれ?神様は人を救ってくれる存在じゃないの?」
「そうなんだけどね。神様と言っても僕たち人間と同じで、色々な考えを持つんだって。個体差?っていうのかな。だから、本にしてしまう神様がいることだって、別に変な事じゃないよね」
「ん-。変じゃないといえば変じゃないのかな……」
私はこの何でも本にする神様と言うものが、どういう意図をもって本に閉じ込めてしまうのか、その部分がとても気になった。しかし、目をキラキラさせて話をする彼の話の腰を折ることなんてとてもじゃないけどできない私は、なにも言わずにただ彼の話を聞き続ける。
「でね、世界の滅びた文明が書物として残っているのは、この神様のおかげらしいんだよ」
「ふうん」
「僕は僕たちの住むこの街の歴史も、その神様にお願いして本にしてもらえないかな?って考えているんだ」
「本にしてもらうような歴史なんて、この街にあったっけ?」
私は彼にそう言いながら、毎日目にしている風景を順番に思い返す。
どれもこれも当たり前の面白くない平々凡々な毎日。本にするような価値のあるものなんて、ひとつもないような気がするのだけど。
そんなことを思いながら怪訝そうな顔をしている私に、彼は目をキラキラさせたまま続ける。
「だからさ、僕たちにとっては当たり前の毎日だって、他の街の人からすれば不思議なことが沢山あると思うんだ。不定期に吹く強い風だって、一年のうち数日だけ吹き抜けていく嵐だって、この街以外ではとても不思議なことかもしれない。それに、僕たちが伝統として守り続けている日常のいろんなこと、例えば家の前に置く渦巻き模様の岩盤とか、玄関に飾る逆さまにした甲虫の死骸とか。僕たちは当たり前すぎて何も考えずにそうしていることだって、もともとは何か意味があるから始まったことでしょ。そういうことを僕は書物として残したい。そして、他の街の人達にも知って欲しいと思うんだ」
「へえ」
私は適当な相槌を打つと、その返事が気に入らず不満そうな顔をしている彼の表情には気がつかないふりをしながら、赤い世界が段々と暗くなっていく様を見続けた。今これだけ興味を持ち熱を入れて話していることだって、しばらくすればこの空のように全く違うモノへと変わっていくことを私は知っていたから。
しかし、大人と呼ばれるようになりしばらく経ったある日。向かい合ってご飯を食べている私に向かって彼はこう言った。
「テア。あの話、覚えているかい?僕はあの神様を迎えに行こうと思うんだ」
あの時と同じようにキラキラと目を輝かさせながらそう言った彼には『そんな話は作り話だ』という私や町のヒトたちの言葉は届かず、どれだけ誰がどうやって引き止めようとしても、彼が決して首を縦に振ることは無かった。
そして一週間後、彼は街を出た。
一度も振り返ること無くまっすぐに歩いていく彼の背中を見送りながら『彼は本の神様の居場所を知っているのかもしれないな』と思ったことは昨日のことのように思い出せる。
しかし、躊躇なく砂漠の向こうへと消えて行った彼は、その後何年たってもこの街には戻ってこなかった。
そろそろ家に入ろう。
空っぽになった洗濯カゴを持ち上げると、私は家に向かって歩き始める。
嵐が吹き抜ける前にまた洗濯物を取り込みに出てこないと。そう思いながら家の扉に手をかけたそのとき、後ろから「テア」と私を呼ぶ声が聞こえた。
思い出に残るより少し低いその声。
「セタ?」
私は彼の名前を呼んで後ろを振り返る。
するとそこには乾燥の目立つ小麦色の肌の彼が立っていた。
「ただいま」
「おかえりなさい!」
私は彼の胸に飛び込むように彼に抱き着いた。埃のにおいに混じる彼のニオイを吸い込んだあと、私は彼から体を離して彼の顔をまじまじと見つめる。
ああ。
本物の彼だ。
そのまま固まったように動かない私に向かって、彼はにっこりと笑った。
「テアは変わらないね」
彼が帰ってきた。
彼の旅の目的は果たされたのだろうか。それとも神には会えず、途中で引き返してきたのだろうか。
「神様は見つかったの?」
そう尋ねながら、私は彼とその背後へと視線を巡らせた。しかし、私の前に立つ彼はどう見ても1人で、誰かを連れて帰ってきたようには見えない。
やっぱり神様なんてお話の中の世界の登場人物で、この現実世界には存在していなかったのだろう。世界を本にする神だなんて馬鹿馬鹿しい。
そんなことを考えていると、セタは小脇に抱えていた本を私に向かって差し出しながら「見つかったよ」と微笑んだ。
「この本が神様?」
私はセタの手にある本を色々な角度からのぞき込んだ。どこにでもありそうな古びた本。かなりの分厚さなので、ものすごい量の情報が書かれているに違いない。
この本が神様だなんて。騙されてるんじゃないの。
そんな私の心の声が聞こえたかのように、彼は少し苛立ちを含んだ声でこう答えた。
「騙されてなんかないよ。本当に神様なんだよ」
声の調子とは裏腹なにっこりとした笑顔のせいなのか、それとも顔にかかる昼間の強い日差しが作る影のせいなのか。私はセタに今まで感じたことのないような違和感を感じた。
「そ、そうなんだ。とりあえず、中に入らない?長旅で疲れたでしょ」
その場から逃げるように勢いよく振り返ってドアを開ける。そんな私の肩をガッチリとセタの手が掴んだ。
「テア、それよりも」
「なに?」
「僕と一緒にこの街の物語を紡がないか?」
手から伝わる温もりとは正反対な冷淡なセタの声。背中に流れる冷たい何かの存在を感じながら、私はゴクリと唾を飲み込んだ。
「物語を紡ぐ?」
振り返った私の肩から手を下ろすと、セタはゆっくりと頷く。
「さあ、テア。見ててごらん」
セタはそう言うと持っていた本を天高く放り投げた。
その時、嵐のような風が街を通り抜けた。投げられた本のページが空中でパラパラと激しい音をたてながら勢いよくめくられていく。
「この嵐の記憶ですらも刻み付けるんだよ。スゴイと思わない?」
セタの言っていることが飲み込めないまま、私は上空に不自然に浮かぶ本をただただ見つめ続けた。すると突然、セタが興奮したようにこう叫んだ。
「この街の全てが本になるんだよ!!」
その声に呼応するように太陽の光が遮られ、街が暗闇に包まれた。
何が起きたかわからない街の人たちが次々に急に暗くなった空を見上げる。どこかから「本?」と言う誰かの声が聞こえた。
見上げた空は一面、さっきまでとは比べようないくらい巨大化した本によって覆われていた。ペラペラとめくられていたページはいつの間にか固定され、何も書かれていないページが町全体を覆いつくしている。
気がつけば、本と地面の距離がどんどんと縮んでいっているようだ。
このままではこの街は本によって押しつぶされてしまう。
「セタ!本に潰されてしまう!!」
私はセタの腕を掴むと彼の顔を覗き込みながら大きな声でそう叫んだ。するとセタは焦点のあっていないような目をしながら、空に浮かぶ巨大な本をうっとりと眺めこう言った。
「ああ、そうさ。素晴らしいじゃないか」
「何が素晴らしいの!?みんな潰されて死んじゃうんだよ?!」
「素晴らしい。なんて素晴らしいんだ!あの神の姿を見ろよテア。この街の全てが記録されるんだ。街も、人も、風でさえも!」
潰されることで記憶される?そんな意味の分からないことが起こるはずがない。いや。あの本がセタの言っていた通りの神であるならば、そんなことでさえも起こってしまうのかもしれない。
「こんなさびれた街、存在する意味が無いんだよ。書物として記録に残されるくらいしか利用価値が無いんだ!僕にとってこの街があるというだけで過去の苦しい思い出が蘇る。そんなものはいらない。この世界にそんな汚らわしいものは存在してはいけないんだ!」
私は今まで思い出そうともしなかったセタの子供時代のことを思い出した。
彼は本が好きだった。
いや、彼の相手をしてくれるものは私以外、本しか存在していなかったのだ。友達、先生。それどころか家族でさえも彼のことを空気のように、存在しているけどしていないものとして扱っていた。
彼の孤独は私のチカラでは癒すことができなかったのだ。自分の無力さに打ちひしがれる私を見ながら、セタは歪んだ顔で微笑んだ。
「テア、君だけは僕と一緒に生かしておいてあげる」
彼のその言葉が終わると同時に、私たちの街は本によって押しつぶされてしまった。
どれくらいの時間が過ぎたのだろう。すぐ近くから聞こえてきた本をめくる音で、私の意識は肉体へと引き戻された。
目の前にあったはずの街は跡形も無く消え失せ、風すら吹いていない。顔を上げると、座り込んだ私のすぐ横で、あの本を手にしたセタが立ったまま満足そうにパラパラとページをめくっている。
しかし、ページが進めば進むほどセタの顔は徐々に険しくなっていった。
街が本に記される
この街の歴史
セタを人間として扱わなかった理由
あの本にはそれらがしっかりと書かれていたのだろう。
この街は遥か昔、不要になった人間を棄てるために作られた。
そして年に一度通り過ぎる嵐に乗せられて、世界中で不要だと判断された人間達が運ばれてくる。
不要な理由はそれぞれ。単に役に立たないからと言った単純な理由から、将来自分の邪魔になる人間だから、調和を乱す存在だから、犯罪予備軍だと判断されたから、など。
社会的地位のある人間が悪だとみなしたものならば誰でも嵐に乗せられた。
セタもある時、嵐に乗せられて運ばれてきた。
彼は『調和を乱す存在』としてここに来た人間だったと私は記憶している。調和を乱すと言っても彼はとても大人しく、暴力をふるったり、暴言を吐いたりなどはしない。
ただ、全てにおいて依存しすぎるのだ。
挨拶をしただけで好意があると思い込み、家に監禁されかけた人の数も数えきれない。他の人と喋っている人に話しかけ、自分の話を聞いてもらえない、僕はいじめられているんだと街中に触れ回ることも多々あった。自分と似た考えの人にはひたすら迎合し、そして、少しでも意見が食い違うことがあれば裏切られた!と吹聴して回る。
彼の相手をするとろくなことが起こらない。
だから街の人たちはいつからかセタのことを空気のようにいないものとして適当にあしらうようになっていったのだ。
そんな中、私だけが彼を人として扱った。そして私は彼にとってかけがえのない存在となる。
私が彼の話を聞くのが好きだったのは、彼が話をしている間は私に対して変な依存をしてこなかったから。それにただ聞いているだけで他には何もしなくてもよかったから。
しかし、私がセタと普通に接していたのには理由がある。
その理由とは『私がそのために作られたモノ』だったから。
『どんな人間でも孤独にしてはいけない』
そう世界の決まり事ができてから、この世界には、私のように感情を完璧にコントロール出来る機械人間が大量に生産された。
ヒトでは対応しきれない。そんな人間の相手をするために作られた存在。
セタは全てを知って何を思うのだろう。
廃棄された人間たちの中でもさらに拒絶されていた自分の存在について。そして愛されていたと思っていた人間が、人の社会で適応できない人間に充てがわれるために作られたモノだったことについて。
彼は今、全てをプレスして本の中へと消し去ってしまうという、とんでもないチカラを手に入れた。
自分を拒絶する社会
全てを受け入れる偽りの人間
歴史としてなんでも封印してしまう本
彼がどういった道を選んだとしても、私はそれを全て受け入れるだろう。それが私の存在する意味だから。
その時、パタンと本を閉じる音が何もない砂漠に響きわたった。
<終>
良かったらスキ・コメント・フォロー・サポートいただけると嬉しいです。創作の励みになります。