西洋哲学の誤謬:存在から現実へ
本当に真に問われるべきは「存在とは何か」なのだろうか。経験論と観念論の対立から始まり、カントの超越論哲学を一つの画期に、現象学を経由して、ハイデガーの存在論に帰着するという歴史を辿った西洋近代哲学はすべて的外れな問いの周りを回っているという感触が消えない。それもこれもプラトンが、目に見えているものの向こうに真の実在、すなわちイデアがある、だなんて壮大な嘘を言い始めたから始まった茶番なのでは。そもそも「存在」ってそんなに特別な概念なのか?本当に重要な問題は「現実とは何か」の方な気がする。
結局、存在の問題ってただの文法の問題に過ぎないような気がしてしまう。例えば、りんごが存在する、とは言えるけれど、存在が存在する、とは言えない。これは「存在」という名詞を「存在する」という述語と一緒に使うことはできないというただの文法上の規則から導かれることにすぎない。結局、存在とはただの文法上の規則で、存在者とはその文法上の規則を満たす名詞の集合の元であるというだけなのでは。(これって完全に論理実証主義者と同じことを言っている。)
それに対して「現実」の方はただの文法の問題に収まらないような気がする。なぜなら、文法の規則とは独立に、現実であるか現実でないか、というのがあるから。文法上の規則を満たすある命題が現実に成り立っているというのがその命題が現実であるということであって、そのことは文法上の規則ではもはや語れない。命題と現実との関係、これこそ真に問われるべきことでは。すなわち、存在とは何かというのは命題内部の整合性の問題に過ぎないのだけど、現実とは何かという問題はそこに留まらない。
ハイデガーが存在の問いとして問いたかったのも、本当は「現実」というものについてなんじゃないか。彼は存在するとはどういうことか、ではなくて、”現実に”存在するとはどういうことか、と問いたかったんだと思う。つまり、文法的には存在できる存在者が現実に存在するとはどういうことなのか。本当に重要なのは「現実」の方であって存在の方ではない。