武士道の淵源(仏教についての記述)
新渡戸稲造の「武士道」に、仏教と瞑想の記述がある。文末、新しき天と新しき地とに覚醒する…と、さらりと述べられているが、この風景こそが、我々個々の現象世界に対する智慧である。
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ラマナ・マハリシの教え
真我の探求にあたって「ラマナ・マハリシの教え(めるくまーる社)」は外すことの出来ない書籍と思われる。この訳文は山尾三省氏によるものだが、訳文にある「自己」について、母は「真我」と訳されるべきだと言っていた。確かに、その文言を置き換えて読むと、意味内容はより分かりやすいように感じた。幾つか文章を紹介させて頂きたい。
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Amazon に投稿したレビュー
初めてこの本を読んだとき、私は自分の心が電気と言うか稲妻にでも打たれたような感覚になりました。
過去、誰でも一度は本当の自分を知りたい、自分探しをしたいと思ったことがあるのではないでしょうか。
この本は明らかにその答えを私たちに伝えていると私は思います…思いますが、だがしかしです…読めば一瞬のその言葉、この「ラマナ・マハリシの教え」を心の底から納得出来るていると自分に嘘をつけずに言えるかどうか?頭で、真我の探求において「私は誰か」と言う思索と瞑想の実践が最重要と分かっていても、どれほどそのことが自分の支えになっているのか?もっと言うと、道元禅師も仰る「生死一大事」の特に「死」に際してもなおそれは自分に有効なのか?…実際は、この部分は生涯かけて取り組むに余りある課題です。きっと、自己のうちに総てがあると揺ぎ無く自認できるまでそれは続くのでしょうけど…
この本は悩み多きこの時代にこそ必要なのではないかと思えてきます。もし、多くの人がこの理解を持つことができたなら、この世の争いは金輪際(←死語かな)無くなるかも知れません。それほどのインパクトのある本だと私は思います。特に瞑想を行う人であれば必携な本です。
平成三十年一月四日 投稿
平成二十八年十月以降の文章ですが、
追記載しています。
続きは以下の記事です。
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この自叙伝、最初の記事は…
この記事につきまして
45歳の平成二十八年十月、私はそれまでの半生を一冊の自叙伝にまとめました。タイトルは「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」としました。この「自然に生きて、自然に死ぬ」は 戦前の首相・広田弘毅が、東京裁判の際、教誨帥(きょうかいし)である仏教学者・花山信勝に対し発したとされる言葉です。私は 20代前半、城山三郎の歴史小説の数々に読み耽っておりました。特に 広田弘毅 を主人公にした「落日燃ゆ」に心を打たれ、その始終自己弁護をせず、有罪になることでつとめを果たそうとした広田弘毅の姿に、人間としての本当の強さを見たように思いました。自叙伝のタイトルは、広田弘毅への思慕そのものでありますが、私がこれから鬼籍に入るまでの指針にするつもりで自らに掲げてみました。
記事のタイトル頭のカッコ内数字「 例(1-1)」は「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」における整理番号です。ここまでお読みくださり本当にありがとうございます。またお付き合い頂けましたら嬉しく思います。皆さまのご多幸を心よりお祈り申し上げます。