(2-1)中学校卒業まで①【 45歳の自叙伝 2016 】

◆ Information
 【 45歳の自叙伝 】と題しておりますが「 自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅 」が本来のタイトルです。この自叙伝は下記マガジンにまとめています。あわせてお読み頂けましたら幸いです。and profile も…

最古の記憶たち


 子供のころの記憶など所詮断片的であって、その多くはデフォルメされていると思う。私の場合、最も古い記憶の一つは、借家のような小さな木造の家の周りを、親を探して泣きながら歩き回っている光景である。

 それから、時期が同じかどうかは思い出せないが、父親らしき男性が運転するバイクに乗せてもらって、目の前の景色がビュンビュン流れていくのも印象的に残っている。その土埃が舞って鼻の奥がカサつくような匂い、晴れているものの白っぽい青空、乾いた畑の風景を古いビデオを見ているような感覚で思い出す。

 その後、徐々に記憶も増えだすが、最古の記憶の断片は現実ばかりでなく夢の中にもあった。その夢は上も下もない、右も左も、前後もないような真っ白の空間に、ただポツンと何かのスイッチが目の前にある…というもの。そこは音もなく真空のようであり、私以外には誰も居なかった。目の前に不自然に浮かぶスイッチを見ていると、やおら押したい衝動に駆られ、子供心につい触れてしまうのだった。

 すると次の瞬間、真っ白い空間はビックリするぐらいの大音響で大崩壊を起こした。同時にどこからかこの世の様々なものが溢れ出し、その瓦礫のような人工物は、轟音と共に目の前に押し寄せ、巨大な壁となって私の周りを埋め尽くした。突然の大変化に、呆気にとられた私は放心して目が覚めた。

 さて、子供の頃の我が家は引越しが多かった。幼稚園でも一度転園していた。最初の幼稚園では友人と笑って走り回った記憶があるのだが、次の幼稚園での記憶はあまりなく、抽象的に泣いていたことばかり思い出される。後で聞けば登園拒否をしていたらしい。

 小学生になれば長い通学路が苦痛で、途中にいじめっ子がいたりすれば、その子らに捕まってしまい、許してもらえるまで何度も土下座をして泣いていたのを思い出す。また同じ頃、新しいランドセルを誰かにカッターナイフのような物で切りつけられもした。その後、見慣れもするランドセルの傷だったが、目にするたびにあの長い通学路が思い返された。

 そして、これも小学一年だと思うが、両親が商売で用意していたつり銭を盗み、叱られた時を思い出す。私はそのつり銭を兄弟と山分けにした後、学校帰りに途中の駄菓子屋で一万円札を出したのだが、お店のおばあちゃんに「このお金どうしたの?」と驚かれ、まごついた記憶が残っている。当然、家に帰れば母親にこっぴどく叱られ、玄関に立たされ、箒で何度も叩かれるのであった。

 思い返すと、何かをしでかすたび、よく玄関に立たされたものだ。立たされて目の前から母親が居なくなると、無性に死んでしまいたい気持ちになった。無理に息を止めたら死ねるかもと思ったが、苦しくなってまた息を吸った。立たされると、そんなことを何度も繰り返していた。

 幼稚園から小学生は引っ込み思案で、運動が苦手な男の子だったのだろうが、そんな私でも近所の田んぼは良い遊び場だった。ザリガニやカエルを捕まえるのは楽しかった。裏の丘や友人の家、駄菓子屋、隣の学区まで、どこに行くにも徒歩であったので、時に歩き疲れて喉が渇き、あまりに苦しくなって、子供ながらに本当に死ぬんじゃないかと思ったことが何度かあった。今思い出しても、あの胸が詰まる感覚が蘇るようで妙に懐かしくすら思える。


◇  ◇  ◇

行方不明


 小学校の三年か四年のときだったか、家出をしたこともあった。…と言うより、私自身は家出をした気など全くなかったのだが、結果的に行方不明となり、近所や学校のみならず警察の世話にまでなって、ちょっとした騒ぎとなったのだった。

 この時は、登校するのに、いつも体操着を入れている巾着が無く、代わりに茶色い紙の買い物袋に入れなければならなかった。これが堪らなく嫌になった私は、学校に行ったふりをして街に遊びに行ったのだ。子供がいない時間に、ひとり出歩く街並みはとても新鮮だった。

 日中はスーパーの試食でお腹を満たし、喉が渇けば近くの湧き水を飲んだ。夕方には帰ろうと思っていたのだが、家に向かう途中でクラスの女の子にばったり会ってしまい、気まずくなって思わずその場を逃げ出した。そして、当てもなく彷徨っているうちに隣の街まで行ってしまったのだ。

 それからしばらく夜のパチンコ屋で過ごしたが、やがて閉店となり終には夜道を一人で歩き出した。真っ暗な旧道をしばらく歩いているとバイクがやってきて「直江君だね」と声を掛けられた。若いお巡りさんだった。

 家に連れ戻されると、警察はもちろんだが、校長先生はじめ先生方が、心配して我が家である自宅兼店舗に押し掛けていたので驚いた。父は私を探し回って車を駄目にしたらしかった。翌日の新聞には、行方不明か捜索願いの記事で私は掲載されたらしい。


◇  ◇  ◇

変転する住処(すみか)と商売


 私一人とってもこんなであったし、子供四人の我が家では、両親はとても大変だったろうと思う。まして引越しも何度となくあり、父は商売を転々として、長く一つの仕事をすることは無かったようだ。

 それでもこの状況に慣れてくると「次は何屋かな?」…と気楽に構えたもので、両親の新しい商売で得なことは何かと想像し興味津々であった。記憶の限りでは、金物屋、鍵屋、中華料理屋、喫茶店とスナック、八百屋、そして再び中華料理屋…と我が家の商売は様々に移り変わっていった。

 引越しに至っては、幼児期の記憶は定かではないが、幼稚園のときに二回、小学生のときに二回、中学生のときに二回、高校になって一回…と言った具合で、住まいもなかなか落ち着かなかった。

 兄弟たちもそれぞれ同じ境遇であったが、のちに私は三つの中学校を通った。転校すれば不安定な交友状況のなか、いじめの対象にもなれば、いじめられないが為のいじめに参加したときも正直あった。学校によって授業の進め方に違いがあり、勉強が追いつかず個人指導を受けたりもした。

 しかし、落ち着けない中なりのある種の慣れか、いつしか「新しい所に行っても、たぶん大丈夫」という感覚にもなった。新天地ならば新たな自分に成れるようで、のちのち転校の苦痛はあまり感じなくなっていった。

 ただ、やはり「引っ越し貧乏」と言う言葉がある通り、我が家の経済は大変厳しいようだった。この頃を経済と言う視点で振り返ると本当は惨めだったのだろう。子供心にも我が家の状況は友人の家にお邪魔をすればすぐ感じ取れた。※下記記事にて当時の状況を母の視点で描いています。

 学校の授業でも、家庭科の教材が買えず、家にあった生地で間に合わせていたとき、先生が「こんなにしてまで頑張っている直江が居るのに(他の児童に)教材を忘れて授業が出来ませんとはどう言うことだ!」とクラス中に怒鳴って注意する一方、私を褒めてくれたのだが、正直内心は複雑だった。


◇  ◇  ◇

歴史への関心


 そんな中でも、父は軍艦のプラモデルをよく買ってくれた。以前、父は海上保安庁で巡視船に乗船していて、それが大きな理由だったのだろうが、ずいぶんと連合艦隊のプラモデルを買い揃えたものだった。父と一緒に夢中で作ったプラモデルもとても楽しかった。

 その取扱説明書にある軍艦の経歴を読んでいると、知らず知らずのうちに連合艦隊についてかなりの知識量になっていった。ただ、気に入った軍艦の多くが戦闘によって沈没していたり、大破して終戦を向かえたりして、当たり前だが、既にこの世には存在しないことを知った。

 終戦時、主だった戦艦や空母の大半は既に無く、航行できる状態であった巡洋艦や駆逐艦などと、唯一残った戦艦「長門」も最後はビキニ環礁での水爆実験に使われるという、実に悔しい結末であったのだ。

 次のプラモデルを買いに出かけても、アメリカの軍艦を見れば「これぞ仇」とばかりに、あえて見向きもしないようにするぐらいだった。期せずして、山本五十六長官の人生を正月の十二時間ドラマで見たり、子供向けの連合艦隊の解説本を買ってもらったりして、ますます入れ込んで行った。

 またどういう訳か、小学館で刊行していた「まんが日本の歴史」というシリーズ本を同時期に買っていてくれて、両親が大河ドラマや歴史番組を見たりしているのを一緒になりながら、その漫画と照らし合わせ、歴史に興味を持って接するようになった。

 これは非常に有意義だった。以降、漫画の中のキャラクターから歴史上の人物が呼び起され、様々なイメージがし易くなった。歴史好きだった父にもいろいろ話を聞かされ、歴史上の事物と人物が私の中で有機的に繋がり、日本史について暗記する作業は少なく済んだ。


◇  ◇  ◇

家での出来事


 一方、父はあまり家に居つかないようだった。商売も母が店に居るばかりで、先生や友人に「お父さんの仕事って何?」と尋ねられても「良くわかんない」としか言えなかった。

 ある日、父が他に女性を作ったのを、母が泣いて怒っていた。2Kの借家では丸聞こえなその会話。細かな事情は分かる由も無かったが、子供ながら居たたまれない気持ちにもなり、その時は、兄弟をまとめ、母を助けないといけないと素直に思えてならなかった。

 父に対しては、怒らせたら怖かったので逆らう気など毛頭なかったのと、まだ起きている意味がよく分からず、父を責める気持ちにまでは至らなかった。実際は、知らなくても良いこともあるのだろう…と子供心に察しつつ、不必要に父に怒られないよう、内容を聞かずにいたに過ぎなかった。


◇  ◇  ◇

卒業と転校

 それから後、小学校を卒業すると同時の引越しで、皆とは別の中学校に通った。呑気な小学校生活は終わりを告げた。六年通えた小学校を無事卒業した私としては、それまで慣れ親しんだ友人と離れなければならなかったのは、やはり淋しいものだった。

 当時、我が家の中華料理屋は、引越しがなければ通うはずだった中学校にほど近かった。後になり、店の手伝いで近くを訪れると、つい昔の友人に会いたくなって、その柵の外からグランドを覗いたり、校門の前をうろうろしたものだ。遠目に、以前気にしていた女の子が、部活の練習でランニングをしている姿を見れば、結構切なく映ったものだった。


(2-1)中学校卒業まで①【 45歳の自叙伝 2016 】
終わり


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この記事につきまして

 45歳の平成二十八年十月、私はそれまでの半生を一冊の自叙伝にまとめました。タイトルは「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」としました。この「自然に生きて、自然に死ぬ」は 戦前の首相・広田弘毅が、東京裁判の際、教誨帥(きょうかいし)である仏教学者・花山信勝に対し発したとされる言葉です。私は 20代前半、城山三郎の歴史小説の数々に読み耽っておりました。特に 広田弘毅 を主人公にした「落日燃ゆ」に心を打たれ、その始終自己弁護をせず、有罪になることでつとめを果たそうとした広田弘毅の姿に、人間としての本当の強さを見たように思いました。自叙伝のタイトルは、広田弘毅への思慕そのものでありますが、私がこれから鬼籍に入るまでの指針にするつもりで自らに掲げてみました。

 記事のタイトル頭のカッコ内数字「 例(1-1)」は「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」における整理番号です。ここまでお読みくださり本当にありがとうございます。またお付き合い頂けましたら嬉しく思います。皆さまのご多幸を心よりお祈り申し上げます。

タイトル画像は hiroyuki_fさん より拝借しました。
心から感謝申し上げます。ありがとうございます。

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