百次のサムライ-薩摩平氏と石塔5- 観現山平礼石寺金剛院跡
はじめに
ここでは鹿児島県の薩摩半島に点在する薩摩平氏(伊作平氏)ゆかりの石塔などをめぐり、戦国乱世を駆け抜けた兵どもの夢のあとをお伝えします。
平安時代末期、桓武平氏の流れを汲むといわれる平良道(たいらのよしみち)が薩摩国伊作郡(鹿児島県日置市吹上町付近)に郡司として下向し、伊作姓を名のり伊作平氏と呼ばれました。やがて薩摩半島各地に拡がった良道の子孫たちは薩摩平氏と呼ばれました。
観現山平礼石寺金剛院跡(かんげんさんひられいしじこんごういんあと)
鹿児島県薩摩川内市中福良町成岡に、薩摩氏一族の氏寺と伝えられる権現山平礼石寺金剛院跡(かんげんさんひられいしじこんごういんあと)があります。場所はJR隅之城駅横の県道313号線を南西へ約800mのあたりです。
平礼石寺金剛院は、創建年代不詳、583年に日羅上人(にちらじょうにん)が開山したとの伝承があり、平安時代後期にすでにあった古寺を頴娃三郎忠永が建て直し、田んぼを寄進して子孫繁栄を祈念しました。
1203年に忠永の子薩摩郡郡司薩摩忠直が坐主職を七男亀童丸(きどうまる)(忠兼)に譲り寺の領地の四隅を定めて税を免除したと記されています。その後、鎌倉時代までこの地方を治めた薩摩氏が代々坐主職を兼任しました。
この寺は真言宗大乗院の末寺で本尊は不動明王です。江戸時代には隈之城郷の祈願所としてこの地方の中心的な寺だったようですが、明治時代の廃仏毀釈で廃寺となりました。そして、1918年に尾崎精熊氏らによって発掘され現在地に安置されたそうです。廃仏毀釈で石像は破壊されて打ち捨てられていたようです。
2体の石像は脇侍で、左が今矜羯羅童子(こんからどうじ)、右が制吒迦童子(せいたかどうじ)です。頭部は後世に造り直されたものです。背面には、江戸時代の仏師大礒作弥(宮之城出身)の刻銘があります。
今矜羯羅童子(こんからどうじ)
制吒迦童子(せいたかどうじ)
本尊 不動明王(坐像)
中央の本尊は不動明王坐像です。面取りした角形の宝塔(台石と相輪欠)の四面に不動三尊、愛染明王の種字が彫られています。
層塔残欠など
外側の層塔残欠(塔身のみ)にも、それぞれ四面に仏像や梵字が刻まれています。
標識
【参考文献】
川内市史 石塔編
川内の古寺院
三国名勝図会 第一巻 隈之城
隈之城の歴史と文化財
ほかの薩摩平氏の石塔についても随時アップする予定です。
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