「いつか大丈夫になる」が信じられなくても
最近のこと/食べものとまた仲違いしてる
鳴りを潜めていた過食が、またひどくなってきた。
先々月から少しずつ減ってきて、先月は1回に収められた。
何となく体は軽いし、過食で増えた体重は減らなくても、「これ以上増え続けることにびくびくする必要はなくなるかもしれない」と思えた。
卵が先か鶏が先か、過食がないからなのか、なんだか心も軽かった。
心が軽かったから、過食に頼らなくてもいいだけだったのかもしれないけれど。
けれど、9月に入ってからは定期的にするように戻ってしまった。
カレンダーに増える👻の絵文字。それは私が過食してしまった日の記録。
(おばけの絵文字、かわいいよね。)
どんどん自分がだめになっているような気がする。
まだあと一週間ほど残っているけれど、9月の間はなんだかずっと苦しかった。
何かにおびえていて、それは過食なのか、将来に対する不安なのか、ずっとずっとなにかと闘っている感じだった。
過食の回数が増えたのは私が何も変われていないから。
頑張れていないから。結局甘えてしまっているから。
カレンダーのおばけは、爆発しそうに痛い過食後のパンパンの胃は、その証明のように思えて怖い。
それでも、同じことの繰り返しではないのかもしれない
ただ、少し違うことも、なくはない。それを人は、甘えだというかもしれないけれど。
例えば、嘘でも、心にもない言葉だとしても、「今日は自分の『食べたい』の気持ちをちゃんと聞けてえらいね!」ということができたこと。
別に私は自分に厳しいわけではないのだけれど、変なところで自罰的になってしまうことがある。
「今日も動かなかった、何もしなかった、なんてダメなやつなんだ」
「今日はお菓子を食べてしまった、けれどあの時本当におなかがすいていた?自制のきかないやつだ」
そんな人間が過食をしてしまったら、もう自責の言葉のオンパレードがはじまる。
でも、責める代わりに、砂金を集めるように少しでも前向きな言葉をかけられるところを探して、頭の中ではすぐに流れて消えてしまうので、SNSで文字に起こしてみることにした。
人間そんなにすぐに変われないので、何か劇的に変わるということはないけれど、ちょっとずつ自罰的なところが変わって、もう少し緩く、そしてあまり爆発が起こらないで生きていければいいなあ、とおもう。
もうひとつは、「今わたし、結構疲れてたんだね。大変だったね😢」と素直に思えるようになったこと。
過食したときに、今不安に思っていることを全部上げてみると、「いや、それは、それはさぁ…確かに私には荷が重いよ…」と感じた。
同時に、「よしよし、大変だったね」と、なんだか自分を抱きしめたくなった。
こういう表現に嫌悪を感じる人もいるかもしれない(「自分に酔ってるな…」って思うかも。書いてみて、私も少し思った)し、そう思うことが正解なのか私にはわからない。前進かもわからないし、後退しているのかもしれない。
ただ、ずっと同じことを繰り返して抜け出せない、と自分を情けなく思っていた私にとって、「なんだ、同じことの繰り返しのように見えて、少しずつ変わっているんだ」と感じたことは、それだけで光だった。
もしこれが後退だとしても、明日の私がまた今日とは違っていたら、その私は前進しているかもしれない、と少しだけ思えたのだ。
自分以外の人にもらえる「大丈夫」は心強いけれど
私は自分自身で「大丈夫」と言ってあげようとしても、その後に必ず「本当に?」が来てしまう。
なので、自分以外の人からの「大丈夫」をどうしても求めてしまう。
けれど、誰かからもらった「いつか大丈夫になる」も、それはそれで「大丈夫になれたのは、その人が強くて、誠実で、努力家で素晴らしい人だからで、だめな私に大丈夫な日なんて来ないんじゃないか」と思ってしまうことも多い。
ただ、沼のそこみたいな毎日は抜けられていないけれど、強くも誠実にも努力家で素晴らしくも立派な人間にも全然なれていないけれど、
ちょっとずつ、昨日の自分と違っている私がいつか、
自分以外の人の「大丈夫」をエネルギーに、自分自身で「大丈夫」と言ってあげながら、大丈夫になる日がきたらいいな、と思う。
来ないかもしれないけど、なんとなく今の私は、多分いつかは大丈夫になれるんだと思う。