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成績をつけること、の弊害。

明けましておめでとうございます🎍✨

かなり久しぶりのブログ更新になってしまったのは、IBが本当に忙しく、メンタルもボロボロになってしまって、心に余裕がなかったが故… 反省しています。
少しばかり2024年の振り返りを。


2024年。能登半島地震。パリ五輪。シリア内戦の動き。トランプ大統領の当選、放棄された、リベラル。

色んなことがありました。
そして、私の身にも数多の出来事が降りかかりました。


IBディプロマのカリキュラムが始まり、半年が経過しました。
毎日ストレスで嗚咽している姿が目撃されて、ハウスメイトに「あいつ多分おかしくなってる」と副校長に密告されたり(笑)、栄養不足睡眠不足が重なり、過呼吸になって倒れたりしながらも、なんとか生きています。

一番印象に残っているクラスは、TOK。哲学チックな授業で、日本語では知の理論と訳されます。
知識とは何か、知識の生産においてバイアスは避けられないのか、といった普遍的で答えのない問いに対し、自分なりの答えを出す学問です。


古来より哲学分野では「知識」は「真なる正当化された信念 (Justified True Belief)」として語られてきました。これは以下の要素から構成されます。

  1. 真である (Truth): 主張が事実として正しいこと。

  2. 信念である (Belief): その主張を本人が信じていること。

  3. 正当化されている (Justification): それが真であることを裏付ける合理的根拠があること。

たとえば、「太陽は東から昇る」という認識が真かつ信じられており、正当化する根拠(天体の観察や論証)があれば、それは知識として成立します。ただし近代、真偽を含めた定義が複雑化しており、特にゲティア問題(Gettier problem)によって「真なる正当化された信念」だけでは知識を十分に定義できない状況も提示されています。ひぃ、恐ろしや。

真実というのはいかに曖昧なのか、この目で見た「経験」は知識と言えるのか。私たちが如何に、自身の目を疑わなければいけないのか、痛感させられるトピックがいっぱいです。

みんなTOKが一番嫌いというのですが、私は本当にこの科目が一番好きです… でも80分の授業が終わるとクタクタになっちゃう位には、頭を使います。


そしてもう一つ。哲学分野における、二つの「主義」

  • 経験主義 (Empiricism): ロックやバークリー、ヒュームなどに代表される立場で、人間の知識は感覚経験を通じて得られると考えます。観察や実験の繰り返しによって世界の法則を把握し、真偽を判断しようとする科学的アプローチは、経験主義に近い姿勢といえます。

  • 合理主義 (Rationalism): デカルトやスピノザ、ライプニッツなどに代表される立場で、人間は生得的な理性や論理を通じて真理を把握しうると考えます。数学的な手法や論理的一貫性を重視する態度は、合理主義的な姿勢です。


私の教員は、完全に合理主義にほぼ等しい考えをお持ちの方で、合理主義に沿った授業を展開されます。

現代の科学的探究は「経験主義」と「合理主義」の両面を組み合わせて進められており、観察・実験によって仮説を検証すると同時に、理論モデルで全体像を統合するというアプローチが主流です。

私は、小学生の頃、ビジュアルがいっぱいの哲学の入門書を読んで以来、知識も経験であると、全てが経験であると唱える、ジョン・ロックという哲学者の考えが、しっくり来ていました。経験主義です。ですがそのように発言すると「ああ、BUT、TOKでは感覚経験と知識は別のものと捉えるよ」と一蹴。

ちょっと待って、ええええええ!と、その日は納得できず、家に帰って、二つの主義を調べ尽くすなどしていたのですが。


あの時先生が、私の他幾人かの意見を一蹴したことから、私たちが学んでいる環境のある種の本質が透けて見えてきます。

それはやはり、自ら探究し自ら思考することを重要視するIBといえど、結局は評価しなければいけないカリキュラムであるということ。根本となる知識を生徒ごとに認識をずらしてしまえば、採点も難しくなるのでしょう。

私も結局は自分の主張を貫くことはできず、成績のため、学校のフォーマットに沿った内容でエッセイを作り上げています。減点対象になってしまうからです。

学びを評価し、成績をつけるシステムによって、学びが制限される感覚がしました。ですが、「厳しい縛りの中でついた成績」が、信頼となり、大学進学、就職の大きな手立てになることも、また事実です。


学校や寮、日々の日常生活において、多様な意見を受容することは、isakという多様性に寛容な多様性が存在している環境において、そう難しくはありません。時折対立することもありますが、それは受け入れようとする過程におけるぶつかりです。

ですが、学問になると、全ての中立を保つのは難しく、ISAKの先生も配慮が大変だな、というのはこの1年間、痛い程に感じました。


ESS(環境システムと社会)という授業も、リベラルによった授業になりがちです。こちらは、人間環境と社会の関わり方を学ぶ学問。「なりがち」なので勿論、多面的な意見をカリキュラム内にも取り入れていますし、経済政策を優先すべきだという意見も授業内で飛び交う時もあり、日本の学校で一辺倒の意見にしか触れてこなかった私にはとても興味深いものがあります。
しかし、試験においては、もちろん「このまま木を伐採し続けると10年後には〜%減少し、村の人々は生活を営めなくなる。よって経済政策を優先すべきではない」と結論づけなければいけません。環境と人間の関わりという側面において、人は異常な消費を繰り返しているのですから、学問的に、数値的には、正しい結論でしょう。


IBというのは、ある種不自由の上に成り立つ自由なカリキュラムで、決められた枠組みの中で如何に個性を出し、己で思考し、自身でそのパフォーマンスを体現できるかが鍵だな、と感じた1年でした。

まあ、私は英語そもそもできないので、必死に食らいつくことに精一杯なのですが…

なので大学は、母語で学びたいという思いがあります。IBを遂行する上で、浮かんできた疑問が、その多忙さ故に探求できなかったこと、英語が枷となって、勉強を全く楽しめていない自分が、歯痒く、悔しさでいっぱいなので、大学では、海外にしろ日本にしろ、自分の探究心の赴くままに、学びたい、という思いが日々強くなっています。



先月、アメリカのとある大学の教育学准教授の論文に魅せられた私は、直接メールを書き、一緒にデータの分析を行うことが決まったり、

所属している学生団体で、メディアのあり方に問いを立てながら、新たな形のメディアを作ろうとプロジェクトを立ち上げたり、

同級生と、内戦で学習環境が整っていないミャンマー、タイの学生に授業を提供したり、と

たくさんの活動を行っています。1日に3つもミーティングがある日もあったりと、教育分野の活動においては、かなり満足のいく充実した1年間でした。


学業に関しては本当に多忙で苦しく、鬱的な症状も起きてしまったのが現状です。
noteの下書きには大量の鬱々しい文章がw

ISAKに来た本来の目的を忘れず、昨日の自分より成長できるように、頑張ろうと思います!

2025年も宜しくお願い致します。


ここまで読んで下さり、ありがとうございました。
皆様の毎日が穏やかな幸せで満ち溢れますように。

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