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他者の物語を想像することをやめない。『すばらしき世界』と『プリズン・サークル』を観て感じたこと

悪役には悪役の物語がある、ということを、私はミュージカル『ウィキッド』から学びました。有名な『オズの魔法使い』に登場する「西の悪い魔女」に名前を与えて、彼女がなぜ「悪い魔女」と呼ばれるようになったのか、その過去を描いた作品です。緑色の肌のせいで親から愛されなかった子ども時代、「良い魔女」グリンダとルームメイトだった学生時代、そしてオズの魔法使いに出会ってからの出来事、その物語を知ったあとでもう一度彼女を見つめたとき、「悪い」とは何だったのか、もしかしたら「悪」とは目に見えているものだけでは到底推し量れないものなのではないか、そういうことを考えたことを覚えています。中学生くらいのことだったと思います。

『ウィキッド』は『オズの魔法使い』の作者が書いたものではありません。いわば後世の二次創作で、原作の「西の悪い魔女」が本当にそんな過去を持っていたかは分かりません。だからこそそれが示しているのは、良い悪いというのは語られ方、解釈の仕方で簡単に変わってしまうものだということです。

大切にしたかったこと

誰にでも、そのひとだけの物語があるということ。その気づきは、私の物事の捉え方に少なからず影響を及ぼしたと思います。世の中での評価がその人の絶対ではないこと、属性がすべてではないこと、誰かを大きな主語(女性は、男性は、日本人は、若者は、などの括り)で語ろうとしないこと、何を考えるときでもそういうことをまず念頭に置きたい、と願ってきました。

願ってきました、という逃げ腰の言い方なのは、必ずしもそれを実践してきたわけではないからです。意識すらしていないステレオタイプでものを言ったことは何度もあったし、自分が傷つかないほうを優先したこともある、偏った見方だと分かっていてわざとそれを選んだこともある。誰にでも物語があるということを知っていることと、それを理解して生き様にしていくことはまた別の話でした。

誰かの物語を想像することはおそらく、それなりに体力の奪われることなのだと思います。痛みを伴うこともあるし、目を逸らしていたいこともある。分からないものや違うものは遠ざけて、世の中で示された納得のいく解釈を鵜呑みにすれば、不用意に他人の傷に触れたり自分の非に気づいたりしなくて済む。傷つかなくて済む。社会に出るとなおさらそれを感じることが増えました。考えれば考えるほど疲弊して、自分には重すぎる荷物を引き摺って歩こうとしているような気がしてくる。自分の中で大切にしたい信念を大切にできないことのほうがはるかに多く、はっきりと、ずっと憂鬱でした。

『すばらしき世界』を観てはっとした

おちょこのような器の人間なのに、理想を大きく掲げすぎたかなあ、と半ば自分を棄てかけていたときに、ある映画を観ました。先月11日に公開された、西川美和監督の『すばらしき世界』です。西川美和監督のインタビュー記事を読んで興味を持ち、公開の翌週に観に行きました。

佐木隆三さんのノンフィクション小説『身分帳』が原作で、役所広司さん演じる主人公の三上は、実在した人物がモデルになっています。物語は、殺人罪で旭川刑務所に服役していた彼が、13年の懲役を終えて満期出所するところから始まります。東京の身元引受人の弁護士のもとに身を寄せたあと、「普通」の生活を目指して日々を送る三上の姿が描かれる、西川監督の言葉を借りると「大きな物語のその後」であり、「退屈かつ切実な物語」です。

映画の三上ははっきり言って突拍子もない男で、それはいかんだろ三上、もうちょい考えろや三上、と思う場面がたくさん出てきました。その一方で、愛おしさを覚えずにはいられないキャラクターでもあり、がんばれ三上、と息を呑んで見守ってしまうシーンがやはり印象的でした。物語の持つ力、美しくもあり恐ろしくもありますが、数十年も前に存在していた、殺人を犯したひとりの男に、どうしたって共感せざるをえない状況を作り出してしまうのが、物語なのです。

そして、私が何よりも切実に思ってしまったのは、この映画を作るために西川監督が重ねた取材のことでした。文庫版『身分帳』の最後、西川監督の「復刊にあたって」によると、三上が服役していた旭川刑務所、幼少期を過ごしたらしい福岡の児童養護施設、出版社の当時の担当編集者、三上を出演させたラジオ番組の担当者、身元引受人だった弁護士の奥さん、三上に関わりのあった場所や人物を訪ねていったと綴られていました。三上が生きていた証拠、「殺人犯」ということ以外の三上の生き様を探して奔走したひとがいたということ、その事実がどうしようもなく胸に刺さりました。そうして作られた映画を観ることができて、本当によかった、と思いました。

気になった刑務所の内側

三上は「十犯六入」、少年時代から非行・犯罪行為を繰り返し、12歳で少年院に入ってから続けて二年以上の社会生活を経験していないと語られていました。彼が人生のハンドルを切るチャンスは、ほとんど少年院や刑務所にしかなかった。そこで私が思い出したのは、以前にネットメディアの記事を読んで興味を持っていた『プリズン・サークル』という映画でした。

日本で唯一「TC=(Therapeutic Community、回復共同体)」という、受刑者同士の対話をベースにした更生プログラムを導入している刑務所が舞台のドキュメンタリー映画。何かに突き動かされる思いで、アンコール上映中だったその作品を観に行きました。

『プリズン・サークル』を観て思ったのは、当たり前かもしれないけれどまず「罪は紛れもなく罪」ということでした。加害者側にどんな過去があったとしても、それに免じて罪がなくなるということは決してない、自分の加害行為はずっとあって、それぞれに被害者がいて、だけど、それに向き合うための余白が加害者自身にないことが圧倒的に多い。身体の拘束と苦役を強いるだけでは、加害者は「罪を償う」というフェーズに至らない。

TC、回復共同体については、今のところ映画の中に出てくることしか知識がありません。でもとにかく、これはきっと彼らに必要な場だと直感的に思いました。加害者自身がかつて虐待やいじめの被害者だった過去、そこから生じる自身の物事の考え方、その存在を一旦認めて、わだかまっているものを融かさないことには先に進めないということを強く感じました。そして、そういう場はもしかしたら刑務所以前、この社会や日常の中にこそ必要なのかもしれない、ということも。

映画の最後には、次のようなテロップが出てきます。「暴力の連鎖を止めたいと願うすべての人へ」、そのメッセージを目にしたときに、胸をどんと突かれたような衝撃がありました。被害と加害は連鎖している。加害者ひとりにすべての責任を負わせるのでは、その連鎖を止めるためのアプローチにはならなくて、これはもっと共有の問題として取り上げられなくてはならないのだと、強く思いました。

以前『ケーキの切れない非行少年たち』という本を読んだとき、非行少年の中には認知機能の問題で「反省以前」の子どもが多くいると書かれていました。彼らはむしろ教育の段階で支援が必要だったはずなのに、見過ごされた結果「生き残る手段」として非行に走るケースがある、とも記されていました。TC、回復共同体で目指されているのは認知機能の教育とはまた別の方向性だと思いますが、要するに、世の中で「悪」とされていること、加害や犯罪行為は構造的に起きている一面が大いにある。そのシステム自体をよりよいものへ改善していくための努力は、加害者でも被害者でもない第三者にこそ託されているのかもしれない。映画を観てから、そういったことを考えていました。

「理解」はしなくていい

すばらしき世界、とはこの世界のことです。映画を観たあと、全くその通りだとも、アイロニックだとも思いました。この、全くその通りだと思えた感覚こそ希望のような気がしています。

これらの映画は、不寛容社会を訴えるものではないと感じています。もっと小さな単位、観た人ひとりひとりの内側に染みるような仕方で問いかけてくる。少なくとも私は、まず自分自身がどういう態度でいたいか、というのを改めて考えることができました。そうして思ったのが、やはり私は「他者の物語を想像する」ということをやめたくない、ということでした。

映画を観るまで、おそらく私は、想像すれば「理解」できると思っていたのだと思います。ここで言う「理解」は「同化」とほとんど同じ意味で、どうにかしてこの隔たりを埋め立てたい、近づきたい、と躍起になっていました。それは、他者に対しても自分自身に対しても暴力的で、理想的なアプローチではない。理解しなくていい、と決めて、想像することに徹する、それが、私が大切にしたかったことを大切にするための第一歩なのかもしれません。

今回、久しぶりに心揺さぶられる体験をして、正直かなりほっとしました。こういうことに共感する心がまだちゃんとここにあって、それを無視できない自分がいたこと、これらの映画に出会わなければ気づかなかったと思います。どんなに日々に埋もれても、自分の輪郭や今いる場所、感じていることを確かにしてくれる媒体に触れることを、忘れずにいたいです。

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