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「なんにも書きたくない」について書きたいという気持ち

なんにも書きたくないなー、とずっと思っている。そのことにはっきりと後ろめたさを覚えるくらいには、書くことに対して思い入れがあった。

くっきりと白黒をつけて書くことが嫌いになったわけではない。言うならば、「なんだかものすごく億劫で、いつまでも気が向かない」という感じ。今日は疲れてるから書かずにおこう、から始まった小さな嫌さが、日々相似形で大きく引き伸ばされていくような感覚だった。それはまた「書けない」とも違って、明らかな意思を持って「書かない」でいるのだった。書こうと思えばきっと何かを書けた。けど、書きたくないから書かなかった。

良しあしを気にしなければならない新しいものを作り出さずにいるのはとても気が楽で、書くために地下深くに潜って考え込むことのない生活はすっきりと平らかで、なんだ書かなくたって生きてられるし書かないほうが幸せじゃないか、とはじめは拍子抜けした。その穏やかさというか暢気さは新鮮で、しばらくのあいだはそのぽかぽかとした空気に浸った。しかし時間が経ってくると、どこかで何かがむずむずし始めた。このままでよいのだろうか。書かなくてよいのだろうか。むずむずして、もやもやして、なんとなくそれをやり過ごそうとしてやり過ごし損ねたままずるずると過ごした。

なんにも書かないでいる、というのはつまり、なんにも言わないでいる、ということだ。あるいはまた、なんにも考えないでいる、ということでもある。このばあいの「考える」は、指し示すところが曖昧で難しいけれど、ただ思いを馳せる、頭をそちらに向かわせる、ということだけではなくて、言ってみれば「決める」に近い意味合いなんじゃないかと思う。頭の中に広げたたくさんの物事、出来事に対して、自分の立場や立ち位置を、決める。そして/だけど 私はこう思う、を決める。

書かないでいると幸せと同時に不安なのは、世界や社会に起きているたくさんのこと全てに沈黙して無関係でいられてしまうからで、出来事に対する自分自身の立ち位置を「決めず」に、なんとなく生きやすいところをふわふわと漂って生活できてしまうから、だった。書きたくない、書かない、によって私は、自分が普段「書く」ことで何をしていたのかを知った。私にとって書くことは言うことで、世界や社会に加わることで、自分が今立つ場所を決めることで、ひっくるめてあえてぼやけた言い方をすると「そこにいること」だった。

そこにいること、に疲れていたんだな、と思った。

でも、そこにいないこと、もとても不安で、とても疲れるんだなあ、と思う。

どうしたもんかな、と思ってとりあえず、この文章を書いてみている。書きたくない、について書く。言いたくない、を言う。ここにいたくない、で、そこにいようとする。なんだかずっこいやり方だ、というのは感じているけれど、今のこのひりひりとした時代なら、そういう「がんばりすぎない」も赦されるんじゃないか、と勝手に願っている。

書きたくないです、を大きく掲げる書き手、というのはどんな存在になってくんだろう。純粋に興味が湧く。

これはちょっと関係ない、おまけのはなしになるけれど、ことばを使いたくなくなった頃から、音楽に頼る時間が増えた。それまで聞いていたもの以外のものもあえて探して聞くようになったのだけれど、そうしているうちになんとなく気づいたのは、音楽や歌の詞には「何も言わない」ということも普通にあるしあっていいんだな、ということだった。答えを出さない、居場所を決めない、そういうことばが音楽ではなく文字に乗ったとき、そして決して詩ではない文章にしたいと思ったとき、それはどんなかたちになって、どんな在り方になるんだろう、という好奇心が、どこかで私を動かしてくれている。

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