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ドイツ新実在論の懐事情。

ドイツ新実在論はシェリング哲学の展開のようでありながら、ドイツ国内で内向きだったハイデガーを裏返しに、外向きのハイデガー以後をやっている。
ハイデガーでは世界の中の存在だったものを、世界の不在としているからだ。
ハイデガーの語る存在には、神が含まれる余地があり、神が世界を作った形式を語らずに包含する形になっており、そのような世界までもを存在の下にあるとした上で、駆け引き的に不在としている。
一方、マルクス・ガブリエルは、固有の世界であるはずの絶対主義をも、語りで成立する多数の世界観の一つとし、その世界観を"語り尽くせぬことをもって発散とすることで不在となる世界"と位置づけることで、彼の言う世界の不在性は、世界観の世界化を志向する絶対主義を多元的な絶対主義として相対化に押し込めることになる。
しかし一方で、民主主義において世界観化した世界とは、直接的に世界という呼称に回収され、彼の論理をくぐることで、絶対主義を相対化しながら同時にその相対性を民主主義が孕む相対主義に含め、共に相対性とすることで相対性自体を下部構造化することが目的となっている。
フランス現代思想が解釈によって一側面を強調した反ヘーゲルと、意志を意思に引き下げることで超克に見立てたニーチェで、カント的な内面を復元し、
新しくない新たな地平の内実を語り、自国の脱工業化を聖化したように、
マルクス・ガブリエルは存在としての世界を実質発散するものとして不在とし、ハイデガーにおいては目的だった世界の中の存在を、不在の世界を現象化させることで、適せん裏返して目的化させ、シェリング哲学の展開かのように擬態させてある。関係そのものが残されるからだ。
前者の白紙が、修辞的に未来を語ることで生じる関係を志向しており、脱構築などに付け加えられた後付けの用法がそれに奉仕しているならば、
後者が生みだした白紙は、そのように志向された関係そのものとなりうるが、関係の在り方はもっぱら彼の散文頼りとなり、それは実際には単なる状況論である。
しかし、ドイツ新実在論には、フランス現代思想が流行したときのような、言い値で激賞してみせる学術的な概念輸入屋や、有り難がって転用した小説などを書いてみせる文化左翼があまりいない。
これは、20世紀末に無自覚だったインターナショナリズムの終わりと、21世紀に顛末として現れたグローバリズムの延長戦が実体化したことによる受容の違いによる。
なぜならば、自由主義の自由は制約である内容に押されて無内容となるが、新自由主義の自由は、その内容の消失により、無内容の内容化から、前提化した無内容から内容の復元をヒューマニズムの達成の上限とするより他ないからであり、
関係をあてにする以上、後者の時代で必要となるのは共通の前提としてこの現実を了解することなのであり、たとえ書籍が必要であったとしても、理解を要する啓蒙それ自体が意味をなさなくなる。
マルクス・ガブリエルは、彼の論理下で拡張された倫理の規模とその射程において、実際には大企業の経営者や株主、銀行家、資本家に、貴族たれと啓蒙し、少なくとも教育係を買ってでなければならない立場である。
なぜならば、彼らの判断は、ガブリエルの建て増しする状況論における状況の属人的な責任者であるからだ。
しかし、彼らもまた状況そのものに喘いでおり、その状況を生んでいるものは極相化そのものなので、それはもはや、説得可能どころか、人として存在していない。

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