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#ネタバレ 映画「ゴジラ −1.0」
「ゴジラ −1.0」
ゴジラとは典子で、今回のゴジラが描いたのは少子化問題か
2023.11.6
( 引用している他の作品も含め、私のレビューはすべて「ネタバレ」のつもりでお読みください。 )
ゴジラ映画史上「最恐」かも
映画「ゴジラ −1.0」を観てきました。
ヤバイ映画です。
普段この言葉を使わない私でも、この言葉が浮かんでしまうような、怖さと迫力です。
記念すべき第一作・映画「ゴジラ」は、1954年11月に公開され、昭和の人たちは衝撃を受けました。
あの衝撃を、2023年11月、令和の私たちも、この作品で追体験できるのです。
ですから、このゴジラ、お子様向けではありません。
ゴジラ映画史上「最恐」かも。
そして、ドラマも映画「永遠の0」を連想させる秀作です。
追記 2023.11.7
「シン」と「0」の意味は、「シンデレラ」と映画「永遠の0」か
映画「シン・ゴジラ」のシンは「シンデレラ」のシンだと思いましたが(詳細はあちらの追記15に)、映画「ゴジラ −1.0」の0は、映画「永遠の0」の0でもあったのでしょうね。
追記Ⅱ 2023.11.7
「だれかがやらなければならない」
ヒロイン・大石典子(浜辺美波さん)は、終戦直後の街で乳飲み子を拾いました。そして、その子のためにも食い物を万引きしたのでしょう。男たちに追いかけられる途中、特攻から逃げかえった主人公・敷島浩一(神木隆之介さん)とぶつかり、とっさに乳飲み子をあずけて、逃げて行きました。
我に.返った敷島は困惑し、乳飲み子をベンチに捨てようとしますが、どうしても決心がつきません。しかたなく、また抱いて、トボトボと歩き出します。その光景を陰から見ていた典子は、浩一の前に現れ、「(子どもを)どうして置いて行かなかったの?」と問います。「そんなことできるわけないだろ!」と浩一。
その返事に浩一のやさしさを見た典子は、乳飲み子を抱いて、自分も浩一の住むバラックに、捨て猫のように居ついてしまうのです。女心は分かりませんが、あの当時、男と一つ屋根の下で同居するからには、典子はこのまま押しかけ女房になる覚悟も、どこかにあったと思います。
しかし浩一は、たとえ典子の事を好いていても、そうは出来なかった。浩一には事実上「海軍一の臆病者」という心の傷があったからです。自分の臆病が原因で戦友をたくさん死なせてしまった。それなのに、自分だけ幸せになってはいけないと思っていたのです。浩一の戦争はまだ終わっていませんでした。
このエピソードの中に、映画「ゴジラ-1.0」の主題があるように思います。
それは、「だれかがやらなければならない」なのでしょう。
追記Ⅲ 2023.11.7 ( ハイブリッド )
映画「シン・ゴジラ」では、日本を仕切っていた主要な政治家たちがゴジラにやられ、絶望の中、官僚たちが中心になって戦います。
映画「ゴジラ −1.0」では、日本政府は終戦直後で力を失い、米軍もソ連への刺激を心配して動きません。そんな中、旧日本軍の生き残りが集まります。民間人が日本のために立ち上がるのです。「だれかがやらなければならない」のですから。
このあたりのハイブリッド感覚は、昨今のTVドラマからも感じられ、今の時代が求めているモノなのかもしれません。
そう言えば、ゴジラは、トカゲか何かが、核を浴びて怒れるゴジラになりました。70年前からハイブリッドしてましたね。
そして、主人公は「海軍一の臆病者」という心の傷を抱え、後半には愛する人を亡くした怒りと。そして、ヒロインは乳飲み子を拾い、さらに、二人は同居して、ハイブリッドしてました。
追記Ⅳ 2023.11.7 ( 「敷島」とは日本の呼び名 )
「 敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花 」
主人公の氏である敷島は、古い日本の呼び名でもあるらしい。
つまり、主人公とは日本自身の事なのかもしれません。
終わっていない戦争を終わらせる儀式の一つとしての「ゴジラ」は、「宇宙戦艦ヤマト」でもあるのでしょうか。
追記Ⅴ 2023.11.7 ( ゴジラは神から動物になった!? )
①かつて、動きの遅い従来のゴジラを、「能」だと言った人がいました。ゴジラは「様式美」だと。一流の俳優のように、じっと舞台に立つだけで絵になるのがゴジラです。ゴジラは荒ぶる神・神の化身なので、能のようでも貫禄があってよろしい。
そして、ただ歩いて行くだけなのです。悪気はありません。でも、その道程だけで、建物が壊れていく。怒った人間が攻撃をする者だから、その瞬間だけ反撃する。顔を硝煙のススだらけにされて(灰かぶり姫)。そして、また、歩いていく。
②しかし、米国のゴジラ映画が恐竜のように描いたので、あちらでは神聖が消えてしまったようです(その後の揺り戻しも感じますが)。
ところで、今回の映画「ゴジラ-1.0」では、ゴジラを①と②の中間に描いた,ようです。どこかで、①と②のバランスに苦労したとの話を聞いたような気もします。ゴジラの姿勢の傾斜によって、直立すると神に、前傾させると恐竜のイメージになってしまうのだそうです。なので、その塩梅を極めたとか。
いずれにせよ、米国に準じてか、神から動物へと、少しイメチェンしたようです。しかし、これは単なる外観ではなく、アイデンティティ(本質)の変化なので、小さくない事だと思います。
日本のゴジラも、動物臭くなってしまったので、もしかしたら、もう、①のゴジラ、能舞台の様式美には戻れないのかもしれませんね。そうそう、このゴジラには、あまり品が・・・。
もしそうならば、オリジナルのゴジラに引導を渡したのは、私たち日本人になるのでしょうか。
追記Ⅵ 2023.11.7 (ゴジラは神から動物になった!?②)
憲法9条が出来た当時の日本では、戦争を絶対悪としたようですので、日本が天罰を受けるのは仕方ないと思っていたのでしょう。そして、天罰なら神からして欲しいわけです。
しかし、70年の時が流れ、現在は憲法改正論議もあります。そんな今では、お仕置きにやって来るゴジラは、勘違いした動物の方が良いのではないのか。日本人によるゴジラ動物化には、ふと、そんな意味もあるのかと思ってみたりしました。
追記Ⅶ 2023.11.8
そして、典子はプロポーズしてくれない浩一に特攻をかけた
>しかし浩一は、たとえ典子の事を好いていても、そうは出来なかった。浩一には事実上「海軍一の臆病者」という心の傷があったからです。自分の臆病が原因で戦友をたくさん死なせてしまった。それなのに、自分だけ幸せになってはいけないと思っていたのです。浩一の戦争はまだ終わっていませんでした。(追記Ⅱより)
①浩一と典子が東京の街を歩いていると、ゴジラに遭遇するエピソードがあります。慌てて逃げ、ビルの前に立ち止まり、ふり返る二人。その時、ゴジラは熱線を吐き、東京の街が大爆発を起こすのです。ものすごい爆風が二人を襲いました。道路側にいた典子は、とっさに浩一を突き飛ばし、ビルの陰に入れます。しかし、典子は逃げる間もなく、爆風に飲まれ、消えてしまいました。
私は典子の行動の疑問を持ちました。私が典子なら、浩一にタックルして、二人でビルの陰に入るでしょう。
( ネタバレになりますが・・・)
②最初は甘すぎ・・・と思いましたが、映画のラストに典子が出て来ます。奇跡的に一命は取り止めたようで、片目に眼帯をして入院していたのです。典子はかけつけた浩一を見ると、冷静に「あなたの戦争は終わりましたか?」と尋ねました。あのシーン、私は眼帯が気になってしまいました。
しかし、①②の点をつなぐと、映画「ゴジラ −1.0」の隠された物語が、見えてきたように思いました。
ここで話を、記念すべきゴジラ第一作(1954年)に戻します。芹沢博士がゴジラを倒すオキシジェン・デストロイヤーで、事実上の特攻をする話です。なぜ彼は特攻をしたのかと言えば、芹沢博士は恵美子をめぐって三角関係に悩んでいて、その上、恵美子がオキシジェン・デストロイヤーの秘密に関する自分との約束を破ったことに失望し(彼女が自分の側にいない証明となった)、別れを決意し、そんな彼女の心に自分を刻印するために、特攻をした可能性があるのです。
この三角関係を映画「ゴジラ −1.0」に当てはめると、浩一が戦争(ゴジラ)と典子の間に揺れているという三角関係になります。つまりゴジラはここでも女性あつかいですね。シンデレラを描いた映画「シン・ゴジラ」と同様に。
そして、典子はプロポーズしてくれない浩一に特攻をかけたのです。それが自分が犠牲になって浩一を守るという手法。これで、浩一の心に自分を刻印しようとしたのでしょう。伏線としては、浩一の家に無理やり同居したのがそうだと思います。それぐらい思い切りの良い女だった。
だから、最後に出て来た典子は、芹沢博士の記号である片目の眼帯をしているのでしょう。そして、刻印を計った典子だから「あなたの戦争はおわりましたか」と、冷静に特攻の効果を確かめたのだと思います。
追記Ⅷ 2023.11.8 ( 典子の特攻② )
浩一をめぐっての、典子とゴジラの三角関係では、典子が特攻したせいで、浩一が敵討ちに動き、ゴジラを倒したのです。つまり、日本を救ったのは、典子の恋心だったとも言えそうです。
浩一に十分な稼ぎがあり、りっぱな家を建てても、典子が銀座で働き出したのは、外で働きたい女だったからでしょうが、理由はそれだけではなく、もし、浩一が結婚してくれなくても自立できるようにと思っていたのかもしれません。
その辺りから、典子の特攻は始まっていたのかも。
追記Ⅸ 2023.11.8
これは特攻を賛美しない映画
クライマックスで浩一がゴジラに特攻を仕掛けた戦闘機・震電の操縦席には、典子の写真がありました。この時点では浩一は典子が死んだと思っていましたから、大量の爆弾を抱えてゴジラの弱点である口の中に特攻し、典子の仇を取って、典子が待つ天国に行こうと思ったとしても不思議ではありません。
しかし、彼は逝けなかった。震電にはゼロ戦には無かった脱出装置が加えられていましたし、何よりも、彼は臆病だったからでしょう。彼は衝突直前に脱出し、震電はゴジラを倒しました。でも、臆病者で良かったのです。そのせいで、生きていた典子と再会できたのですから。
ということは、典子が奇跡的に生きていたという顛末は、ハッピーエンドにして興行成績を上げたいという大人の事情が無いとは言いませんが、「浩一が生きていた」というエピソードと対になる「典子も生きていた」という、お話にしたかったからではないでしょうか。
一対性は、浩一は震電(典子の写真)をゴジラの口の中に入れ、自分は脱出して着水した事と、典子が浩一をビルのすき間に入れて、自分は飛ばされた事、そして、ゴジラにくわえられた電車から飛び出て着水した事にも表れているように思います。
追記Ⅹ 2023.11.9
描いていたのは「少子化問題」か
映画は時代を映す鏡でもありますが、それはゴジラも例外ではありません。
ならば、今回の映画「ゴジラ-1.0」は何かといえば、それは「少子化問題」だと思います。
典子が街で子供を拾うのもそうですが、他にも記号がたくさんあるように思います。
冒頭に出て来たゼロ戦の20ミリ機銃は男根で、浮き上がった深海魚は精子の記号でしょう。
ならば怖くて20ミリ機銃を撃てなかった浩一とは、草食男子と言いますか、現代にも通じる男子象の記号なのかもしれません。
浩一は「僕の戦争は終わっていない」と結婚を先延ばしにしていました。その気持ちは本当でしょうが、その陰には、結婚に対する恐怖・臆病もあったのだと思います。
そうこうしている内に、典子は死んでしまった。
失って初めて自分の本心が分かるのは、普遍的な事なのでしょう。ここで、浩一は結婚の覚悟が出来たのです。
クライマックスではゴジラの口に特攻しますが、1~2秒口に刺さったままのシーンがありました。普通なら即爆発するはずなのに。あれはHの記号なのでしょう。直前にはゴジラが上下するシーンもありましたし。そうそう、興奮したゴジラの背びれが立ち上がるのは意味深ですね。
そして、死んだゴジラが沈んだ母なる海(羊水)から、新たな生命が誕生したのです。
追記11 2023.11.9 ( 特撮映画の人間ドラマ )
映画「ALWAYS 三丁目の夕日」を観て、あの当時の日本人は、あんなにマンガ的だったのかと思った人もいるようです。しかし、あの作品は映画「東京物語」とほぼ同時代のものなので、マンガ的に見えたのは作風の違いだという事が理解できます。
では、ゴジラ映画には、どちらの作風が合うのか。映画の定石として、哀しいシーンには快晴ではなく雨が降るように、怪獣映画の定石はマンガ的な作風になるのでしょう。お子様向け映画の場合は、ならなおさらです。
でも、私は映画「東京物語」の世界観の中にゴジラが出て来るような作品が観て見たいのです。今気づいたのですが、もしかしたら、その「虚構と現実」は映画「シン・ゴジラ」で実現されていたのかもしれません。
しかし、作風を問わずドラマの出来・不出来はあるので、人間ドラマを「怪獣映画の添え物だから」と思わずに、「怪獣が出なくても立っていられるような人間ドラマ」を目指して欲しいものです。
追記12 2023.11.9 ( 映画「君の膵臓をたべたい(2017))
映画「君の膵臓をたべたい(2017)」でも、浜辺美波さんは、クラスメイトの心に、刻印を残して去って行った。どうやら、彼女の得意技かも
そう言えば、映画「君の膵臓をたべたい(2017)」でも、ヒロインの浜辺美波さんは、クラスメイトの「僕」の心に、刻印を残して去っていきましたね。どうやら、彼女の得意技かもしれません。
追記13 2023.11.10 ( 映画「プリティ・ウーマン」を連想 )
映画の終わり、死んだと思っていた典子が出て来ました。
病院のベッドの上で、片目に眼帯をしていました。あれは映画「ゴジラ」で、悲恋の中、特攻した芹沢博士の記号ですね。
ならば、映画「ゴジラ −1.0」では、その芹沢博士を蘇らせ、ハッピーエンドを贈っていたのかもしれません。
歌劇「椿姫」の悲劇のヒロインを現代に甦らせ、ハッピーエンドを贈った、映画「プリティ・ウーマン」のように。
追記14 2023.11.10
ゴジラとは典子のことか
>浩一をめぐっての、典子とゴジラの三角関係・・・(追記Ⅷ)
つまりゴジラも女性になります。
映画の最初、典子は浩一に乳飲み子を押しつけ逃げました。オロオロする浩一。後に、典子は戻ってくると、赤ちゃん共々、浩一の家に捨て猫のように入り込んでしまうのです。困惑した浩一は出て行くように急かしますが、典子は聞く耳を持ちません。
一方、ゴジラは絶望を浩一たちに押しつけ、日本を自分の縄張りにして上陸します。浩一たちは追い出そうとしますが、手ごわすぎます。
もうお分かりだと思いますが、この二つのエピソードは相似形になっているようです。
つまり、「ゴジラ=典子」だとも言えそうなのです。
草食系男子!?である浩一にとっての恐怖は、押しかけ女房のように結婚を迫る女性であり(ゴジラ)、その上、その女との間に子供が生まれる事は、もう責任回避が出来ない、遊びでは済まなくなるので、絶望の象徴なのでしょう。
この映画「ゴジラ −1.0」は、浩一が典子と暮らした日々、その心象風景を、浩一の視点で、ゴジラを使って描いていたのかもしれません。
そして、最後には典子(ゴジラ)の決死の求愛に負けて、二人は結婚し、新しい命が生まれる事になるのです。
はたして浩一はゴジラに勝ったのでしょうか。
追記15 2023.11.10
東京の衝撃と、浩一の衝撃
ゴジラが放射熱線を吐く新予告編が公開されました。東京に衝撃を与える場面です。
そのシーンと同時に、典子が浩一を突き飛ばして自分は消え、浩一に衝撃を与える場面があります。
この二つは、ゴジラと典子の一体性を語っているように見えます。
追記16 2023.11.11
典子の突き飛ばしは、ゴジラの放射熱線
①映画を観た私の記憶では、東京に上陸したゴジラが、放射熱線を吐き、その爆風が襲ってきたので、典子は浩一をビル陰に突き飛ばします。
②しかし、この新予告編では、ゴジラが放射熱線を吐く前に、典子が突き飛ばしているのです。本編の単なる切り抜きではなく、順序が逆になるように編集してあるようです。
なぜ・・・
おそらく、映画の表層での時系列は①になり、深層では②になるからで、この新予告編では②を語っているのかもしれません。典子の突き飛ばしは、ゴジラの放射熱線であるという。
追記17 2023.11.11 ( 映画「シンクロナイズドモンスター」 )
映画「ゴジラ −1.0」から、ふと、映画「シンクロナイズドモンスター」 を連想しました。
これは、「街で暴れている怪獣は、本人も自覚していなかったが、操り人形のように、なぜかヒロインとシンクロしていた」という、前代未聞の怪獣映画です。「ゴジラ=典子」と言えるなら、この作品を連想させます。
追記18 2023.11.17 ( チラシのキャッチコピーの意味は )
ならば、
「 戦後、日本。
無(ゼロ)から負(マイナス)へ。」
というチラシのキャッチコピーは、
日本の人口減でもあるのでしょう。
追記19 2023.12.16
映画「ALWAYS 三丁目の夕日」に、映画「ゴジラ-1.0」を見る
①映画「ALWAYS 三丁目の夕日」がTV放送されていたので観なおしています。そうしたら、同じ監督というだけでなく、このなかには、②映画「ゴジラ-1.0」のモチーフが入っていると思いました。
①の前半のエピソードには、親に捨てられた子・淳之介を、駄菓子屋をしながら小説を書いている茶川竜之介に、無理やり押しつけ、茶川竜之介が不機嫌になる様子が描かれています。その後、居酒屋を経営している石崎ヒロミとの恋愛ドラマになって行き、恋の成就のために発奮する淳之介のドラマがあります。②にも子連れの押しかけ少女が出て来て、主人公を困惑させていましたね。この辺りのモチーフは監督のこだわりでしょうか。
(追記)①の映画が始まると模型飛行機が出て来ます。②もゼロ戦がでてきますね。①のタバコ屋のおばさん・大田キンが、なぜ男っぽい防寒着を着ているのかと思いましたが、あれはゼロ戦服のつもりだったのでしょうか。そして、大田キンはブレーキ不良の自転車で六子にぶつかります。特攻でしょうか。そして、六子が修理するのです。六子が訛りを隠そうとすると、「御国言葉は大切にしなさい」、みたいな事を言います。「命を大切に」と言っているようにも聞こえます。
駄菓子屋の茶川はスカのくじばかりを作って、拳銃のおもちゃが当選しないようにしている疑いがあるので、子どもたちから嫌われ、バカにされていました。大人たちも、鈴木オートの社長・鈴木則文を筆頭に、皆が茶川をバカにしているようです。②の主人公も、特攻どころか銃も撃てない臆病者と言われていましたね。しかし、その臆病者とバカにされた男が、縁もゆかりもない子供を育てる決心をし、皆が憧れるマドンナに求婚をし、仕事でも成功者を目指すのです。
忘れてはいけませんが、ゴジラはどこに出て来たのかと言えば、六子に怒り狂った鈴木オート社長ですね。それと、屋根裏で、飛んでいる虫を食べた(戦闘機に特攻された)、ヤモリ!?君でしょうか。
( 2023.12.14のパレット記事より加筆再掲 )
追記20 2023.12.19 ( 「東京タワー」と「ゴジラ」 )
①映画「ALWAYS 三丁目の夕日」と②映画「ゴジラ-1.0」の関係の話の続きです。
①に出て来た東京タワーは希望の象徴でしょうが、②に出て来るゴジラは絶望の象徴でしたね。
監督は、同じモチーフの物語を、「希望」と「絶望」の世界観を使って、二度描いていたように思います。
そして、それは、どちらの世界観の中でも通用する(必要な)、いわゆる普遍的な営みであることを、強調したかったのでしょうか。
追記21 2024.5.13
一心同体なので、ゴジラが再生すれば典子も再生する
冒頭に「ゴジラとは典子で、今回のゴジラは少子化問題か」と書きました。
両者は一心同体なので、ラストにゴジラ細胞が再生しているから、典子も再生する(生き返る)のだと思います。
( 最後までお読みいただき、ありがとうございました。
更新されたときは「今週までのパレット」でお知らせします。)