#ネタバレ 映画「駅 STATION」
「駅 STATION」
駅/STATION : ポスター画像 - 映画.com (eiga.com)
1981年作品
赤提灯
2003/8/16 8:20 by 未登録ユーザ さくらんぼ
( 引用している他の作品も含め、私の映画レビューはすべて「ネタバレ」のつもりでお読みください。)
居酒屋といえばこの作品を思い出す
犯人を追って北国まで来てしまった主人公(高倉 健さん)。北国は常に彼の心の心象風景でもある。彼は雪深い夜の町を歩く。繁華街ではないので薄暗く寂しげなところである。そこで雪に埋もれるようにひっそりと営業していた小さな居酒屋を見つけ入る。
大晦日の夜、常連達は皆それぞれの家庭に帰ってしまい、居酒屋で酒を飲む人など誰もいない。テレビが紅白歌合戦を独り言の様にながしている。
店には女将さんが一人・・・カウンターに座る主人公・・・即席で一対のカップルが出来上がる。
やがて、そこにも、外の赤提灯から感じられるとおりの温もりが生まれた。紅白から流れる八代亜紀さんの名曲「舟唄」、雰囲気は最高である。孤独な者同士の思いがけない幸せが始まる。数分前まではお互い想像すらできない事だった。
これは、とても好きなシーンで、これを見たさに映画のコレクションをしたいと思うほどだ。そして、この居酒屋は映画の最後にもう一度出てくる。そのときには、何かを語りたいが、何も語れない二人なって登場する。デリケートすぎる心を防護するように、いつもポーカーフェイスで寡黙な健さんだが、今度の経験はそのガードをいっそう固くしたに違いない。
ここで時間をさかのぼる。映画の冒頭で犯人を狙撃したために、その家族から「人殺し」となじられ、傷つく健さんがいた。
この映画が他の刑事ドラマと違い、被害者ではなく、加害者の家族と、職務遂行する警察官の哀しみを描いた作品だとしたら、あの「居酒屋」のシーンは箸休めではなく、そのモチーフを見事に結晶させた名シーンの一つだと思うのだ。
追記Ⅱ ( 幸福の白いハンカチ )
2014/12/8 8:53 by さくらんぼ
この映画「 駅 STATION」は、健さんという罪人刑事(つみびと)の、改心への旅路の物語だった
人気TVドラマ「素敵な選TAXI」の劇中劇に「犯罪刑事(デカ)」というのが出てきて、「犯人は俺だ~」という主役デカの決めゼリフが面白いですが、この映画「 駅 STATION」も、ある意味、健さんという、罪人刑事(つみびと)の、改心への旅路の物語だったのですね。
映画「駅 STATION」にも出てくる 列車は、定石ではモラルの記号です。たくさんの人を乗せ、決められた線路を、時刻表通りに走るからです。
ならば駅は、インモラルの記号になりえます。モラルである列車から、なんらかの欲望(罪の種)を持って降りる場所だからです。またSTATIONには位置という意味もあるようです。つまり、意訳すると「その人の立ち位置」ですね。
ところで、映画の冒頭、不倫の罪を犯した、いしだあゆみさん扮する健さんの妻・直子が、列車に乗って去って行き、健さんの方が駅に残ったのはなぜでしょう。
記号で解釈すれば、直子にモラルの分があったから、になります。健さんではなく。
不倫の罪は微妙ですね。本来はその夫婦にしか分からないことですが、映画ですから、単純化して考えます。
不倫は、それ自体を単純に考えればインモラルな行為ですが、夫がかまってやらなかった(夫の罪)から、妻が不倫した場合もありますし…今回の場合はそれにあたるでしょう。
しかし、妻が苦しむほどに後悔し、反省している場合、それを許さない夫には、罪が加算されることがあります。だから、今、夫婦天秤にかければ、この事例では妻に分があるのではないでしょうか。
なのに、あのとき「たった、一度のあやまちだ、もう直子も十分苦しんだし、許してやれよ…」と、言う先輩の言葉も、健さんは拒絶しました。「不倫はゆるせん」という、ヤクザ映画みたいな四角四面の石頭ですね。
あのセリフは重要なキーだと思います。
「ごめんで済めば警察はいらん」などと、子供時代は遊びで言ったものですが、健さんは、その厳格な刑事魂(STATION) を家庭にまで持ち込んだのです。
それが、間違い。
だから、健さんが悪いのでしょう。
このあたり、社会の正義と、家庭内の正義は違う、という事を描いた映画「リトル・ミス・サンシャイン」をちょっと思いだします。
しっかり、していそうでいて、実は未熟者の健さんは、こうして妻を失ったことを皮切に、先輩や、妹への信頼、オリンピックなど、いろんなものを失っていく構図になっています。
ちなみに、余談ですが、兄弟姉妹が親に表する言動について、自分の物差しだけで、(「兄貴は親不孝だ」などと)善悪を測ってはいけません。親子関係は兄弟姉妹みんな違うのです。微妙なんです、真実は。
例えば、自分と同じように、兄も親から愛されたとは限りません。その点、 映画「男はつらいよ」に出てくる、さくら、は良くできた娘ですね。さくら、はいつもお兄ちゃんの味方です。さくらの、たった一本の糸で、寅さんは家族として、つながっているんです。もし、さくら、が幼稚な社会正義をふりまわしたら、とらや、は寒々とした氷の家になり、寅さんは、もう帰る場所がなくなります。高齢者の孤独死にもつながります。
脱線しました。
話を戻しますが、健さんみたいに仕事に染まると言いますか、誰でも、どんな仕事でも、それは起こりえますね。その極みが、仕事上の殉職でもあります。マラソン選手の遺書もそうです。染まりすぎました。
また、殉職しなくとも、刑事は、出前持ちに扮して、相手を騙して射殺したり、また、なりゆきとは言え、汚い世間に絡め取られて、本当に汚れてしまったり(すず子のエピソード・だから自己嫌悪から吉松に差し入れを続けていた)、潔白でも汚れた奴だと誤解されたり(桐子のエピソード)…殉職しなくとも大変です。
そうやって深く世間のありさまを知って、やっと、最後に、自分の過ち、若気の至りに気がついたのです。
この映画は、私たちも寡黙な健さんと一緒に旅をすることで、彼(加害者である健さん)の、心の軌跡を想像する作品なのだと思います。他の事件、犯罪者は、健さんの、更生のための家庭教師、教材でもあります。
映画のラスト近く、健さんは妻・直子に電話します。直子は水商売をしている様です。子供を育てるためにでしょうね。
退職願を破り捨て、これから健さんは直子に逢いに行くのでしょう。生活費がなければ再婚は難しいですし、職を辞めないのは再び列車に乗る(正しい立ち位置で)ことを意味します。
「もし、俺を許してくれるのなら、家の前に、黄色いハンカチを結んでおいてくれ」等は、この映画の雰囲気上はマッチしない(言えない)恥ずかしセリフだと思いますが、雪国のドラマでしたから「白いハンカチを結んでおいてくれ」ぐらいなり、ギリギリ、セーフでしょうか。
そして、直子は結ぶのです。
「どうして、わかるの?」。
映画の冒頭、あの泣き笑いをしながら、敬礼をして去って行く直子の顔に、そう書いてありました。
★★★★★
追記Ⅲ ( ふたたび「舟唄」 )
2014/12/8 8:56 by さくらんぼ
「舟歌」は「欲望の歌」でもある
ところで、その舟唄ですが、なぜ挿入曲になっているのでしょうか。
それは犯罪の種にもなる「欲望の歌」でもあるからでしょう。
舟唄は、ほどほどの欲望を提示して、聴く者に安心感を与えています。「灯りはぼんやり 灯りゃいい」なんて、最高の世界ですね。
人が犯罪を犯すのは、多くの場合、欲望からです。だから、ほどほどで満足しているのも良いのです。「足るを知る」ですね。これ、実はハイセンスです。
また、人には、食欲、性欲、睡眠欲があり、三大欲求と呼ばれている様です。それも映画に反映されていました。
食欲では、映画の冒頭、犯人が腹ペコになり、出前を頼んで射殺されるエピソードがありました。そうそう、健さんの子供も駅で弁当を欲しがりました。あそこは重要なシーンです。
性欲については、不倫の話や、それ以外にも、沢山ありました。
睡眠欲については、桐子とHをしたときに、桐子から「私の声は大きくなかった?」と健さんは聞かれます。健さんは表面では否定しますが、実は、ものすごく大きかったのでした。
彼女が、自分の喘ぎ声も覚えていないなら、それは本当に睡眠にも等しいエクスタシーであり、イビキと同じでしょう。だから、あれは、無理やりの睡眠記号であった可能性があります。
追記Ⅳ ( 「俺たちの勲章」 )
2016/9/22 21:49 by さくらんぼ
TVドラマ「俺たちの勲章」の最終話は映画「駅 STATION」の原型か
録画したまま観れないでいた往年の人気TVドラマ「俺たちの勲章」、その最終話「わかれ」(1975.9.24放送)の、再放送を観ました。
懐かしかった。
当時、私も社会人として参戦したばかりで、主人公たちと同じく、まだ会社には一人前として受け入れられていませんでした。
はみ出してばかりでした。それでも会社が、社会がきちっと回っていたのは、先輩のみなさんがしっかり守っていたからだという、あたりまえの事が、今さらながらに分かりました。あのときの私は、まさに末席を汚した存在だったのです。
そんな感傷に浸っていましたら、ふと気づいたことがありました。
「最終話」の内容が、映画「駅 STATION」と、なんとなく似ているのです。とくに「駅 STATION」で描かれた「1976年6月 すず子」と「1979年12月 桐子」の話と。
調べてみると監督は両方とも降旗康男さん。脚本は「最終話」が鎌田敏夫さん。「駅 STATION」が倉本聡さんでした。
今の段階では、オマージュだと言えるほどの材料はありません。監督が同じですし、もしかしたら何か楽屋落ちの逸話が色々あるかもしれません。何れにせよ「最終話」のストーリーは傑出していたという事は確かでしょう。
忘れてしまうのは惜しいので、とりあえず、ここにメモしておくことにします。
追記Ⅴ ( 直子と桐子 )
2017/5/20 15:12 by さくらんぼ
居酒屋で、初めて英次は、かつて直子が黙って敬礼をして去って行った心情を悟った
>これは、とても好きなシーンで、これを見たさに映画のコレクションをしたいと思うほどだ。そして、この居酒屋は映画の最後にもう一度出てくる。そのときには、何かを語りたいが、何も語れない二人なって登場する。デリケートすぎる心を防護するように、いつもポーカーフェイスで寡黙な健さんだが、今度の経験はそのガードをいっそう固くしたに違いない。(本文より)
最初の女「直子」は、浮気をしたので刑事である夫・英次から離婚を申し渡されました。
英治は、「俺は必死で頑張っていたのに、妻はのうのうと浮気をした」と断罪したのです。これはある意味報復ですね。
しかし、妻にも情状酌量の余地はあります。夫はその事を、以後何年もかかり、己の仕事から学んでいくのです。
そして最後の女「桐子」は、犯人と英次との二股をかけていました。犯人から見れば英次は浮気相手になります。でも…ほかっておかれた桐子もさみしかったし、英次も寂しかった。
桐子の二股は破たんしましたが、桐子も英次もそんなに悪くありません。しかし、その状況は英次も桐子も説明出来ません。二人とも黙って別れるしかありませんでした。ここへ来て、やっと英次は、かつて直子が黙って敬礼をして去って行った心情を悟ったのです。そして英次が加害者だったことも。
追記Ⅵ ( 映画「逃亡者」 〈1993年〉 )
2020/6/1 17:21 by さくらんぼ
映画「逃亡者」〈1993年〉のレビュー追記を書いていて、遠景に、ふと映画「駅 STATION」を連想
現段階ではオマージュかは分かりませんが。
追記Ⅶ ( 映画「逃亡者」 〈1993年〉② )
2020/6/2 7:21 by さくらんぼ
映画「駅 STATION」と映画「逃亡者」は、ともに「人間の寂しさ弱さを」知るため、「理性ではなく人情の迷宮」を知るための旅路だった
( 以下、映画「逃亡者」〈1993年〉のネタバレです。)
映画「逃亡者」〈1993年〉の主人公・キンブルは、妻に対して愛憎の念という心の闇を持っていたようです(詳細はあちらのレビューをご覧ください。レビューは順次掲載しています)。
その中で妻が殺され、警察から犯人扱いされて逃亡者の苦労を味わうことは、深層的には、神から心の中を見透かされたようなキンブルの、自責の念を可視化したものだと思います。真犯人である片腕の男とは、実はキンブルの分身(憎)の記号だった可能性があります。
映画「駅 STATION」の主人公・英次は、警察官の仕事とオリンピック出場候補ということで忙しく、疎外感を味わった妻は浮気をしてしまいました。
しかし、理性が勝り、かつ完璧主義者の英次には、妻の寂しさ、人間の弱さが分からず、妻を犯人のごとく断罪し離婚したのです。いや、本当は(金メダルを取るために妻は邪魔だ)という心の闇の隠れ蓑として「妻の浮気」を利用した可能性もあります。
離婚後に英次が味わう捜査での旅路は、「人間の寂しさ弱さを」知るため、「理性ではなく人情の迷宮」を知るための旅路でありました。彼は旅の中で妻を理解し、「罪人は妻ではなく自分だった」と悟るのです。
( 最後までお読みいただき、ありがとうございました。
更新されたときは「今週までのパレット」でお知らせします。)