『夏秋』によせて
三十路を前にしても、わんぱく少年で居ることを捨てられない私にとって「夏休み」という響きはいつの時代も甘美な響きを伴う。ただ、悲しいかなその言葉から連想するものが段々変わってきてしまっていることも、事実だ。
小学校の頃は「おばあちゃん家」、「ラジオ体操」、「自由研究」、「スクールウォーズ」、「大好き五つ子」、「カブトムシ」、「海」、まだまだワードは尽きないが、こんなところで止めておこう。一方、今となっては、「遅くに起床」「できれば旅行」。この二つで尽きる。そう考えると、どこがわんぱく少年なんだ、と悲しくなってしまう。まあとにかく、あの頃の私にとって夏休みはパラダイスで、秋なんて季節は、冬休みが始まるまでの繋ぎ、ぐらいにしか思っていなかった。
金木犀が風に乗って鼻腔をくすぐり出すと、またこの季節が来てしまったな、などと幼なげながら殊勝なことを感じていたものだ。友達と電車に乗っていて、友達が先に降りてしまった時、段々と綻んでいた顔が真顔に戻る。秋はあの真顔、になる季節だ。
当時は、母親がセールで買ってきたペラペラのTシャツしか選択肢が無く、おしゃれをする、などという価値観も持ち合わせていなかった。読書の秋、食の秋、ファッションの秋、などと秋を持ち上げるキーワードはいくつかあれど、小学生の自分にとって、秋は「無」。定規とか流し台とか、そんなものを目の前にした時の感情とほぼ一緒だった。
ふと、思う。今の自分にとって夏、はどうだろう。正直暑い、湿度が高い、と言った地球への愚痴ぐらいしか出てこない。子どもの頃はアウトドア派だった自分も、今や蝉の声を聞けば舌打ちし、蚊から身を守るために過剰なほどスプレーを振りまく。そう考えると、ああなるほど、変わってしまった。もうあの頃には戻れないなあ、などと少し寂しくなる。
あの頃から考えると、変わってしまったなと思うことがもう一つある。ゲームへの向き合い方だ。昔も今もデジタルのゲーム、特にRPGは大好きなのだが、それも今と昔では少し趣が異なる。
気が付いたら、とっくに1時間を過ぎていて、母親にどやされながら、渋々セーブする。その後、こっそり布団の中に持ち込んで、小さな懐中電灯の灯りを頼りに、また再開する。それほどまでゲームにハマることが最近は無くなってしまったように思う。
なぜ、あの頃はあんなにハマっていたのだろうか。ストーリーを追うことが楽しかったからだろうか、それとも特別なアイテムをコンプリートする楽しみがあったからか。ネットも発達していない時代だったから、どうにかして攻略する方法を何度も自分で試していたからかもしれない。
今となってはあの小学校、中学校の頃のようにまたゲームにどっぷりハマれるとは、中々思えない。ただ、経済力はあの頃よりあるもんで、気になったゲームはすぐに買ってしまう。遊ばずにパッケージの封も切らずに放置してしまうことの方が多い。いわゆる「積みゲー」という状態だ。
ここで一旦整理をしよう。
昔の私は夏が好きで、今の私は夏が好きではない。ただ、夏休みという響きは二人とも好きだが、今の私が好きなのは「休み」の部分でしかなさそうだ。幼気な私は冬休みと夏休みの繋ぎとしか秋を捉えていなかったが、今の私は春と秋が好きだ。過ごしやすいし、好きな服が着れる季節でもあるから。そして、ゲーム。なぜわざわざこんな話を出したかというと、この感覚が似ているように思えたからだ。今の私がゲームにしっかり向き合えてないことと、当時の私が秋と向き合えていなかった感情が似ている気がするのだ。
「無」。もちろん今もゲームが好きだから、そう思いたいから、こんな残酷なことを言語化するのはとても悲しい。もちろん、今の私がゲームのことを流し台とか、街角のポストとか、換気扇に抱くぐらいの感情しか持っていない、というわけでは断じてない。だが、ゲームを、ことさらRPGを楽しむには、色んなことを知り過ぎてしまった。ああ、これがこうなってあの人がこうなんでしょ? とすぐ考えてしまう。それが当たれば、「やっぱりな」だし、外れれば「こっちの方がいいじゃん」などとくだらないプライドが顔を出す。もっと、あの頃のように何も知らない、考えないでいられれば、よりのめり込むことが出来るのだろう。
今の私は知っている。夏のうだる暑さはいずれ突き刺す風となり、新緑は鮮やかな黄色を最後に地に積もる。もう何度も、何度も繰り返し見てきた光景だ。そこに新鮮味など無いだろう。
それでも、綺麗なものは綺麗だ。五メートルほどもある大木が、携えるイチョウを黄色く変えていく様や、気づけば鈴虫やコオロギがセミから舞台を奪取する様子。広い公園に行けば、子どもが小さなアウターを羽織ったりしていて、親御さんの愛を感じる。変化の過程は見知った光景だけれども、その普遍の変化にこそ、安心感を覚えたりもする。
もう自分の人生の行く末は、大方予想がついている。ゲームのような起承転結、序破急なんぞ起こりゃしないだろう。今その渦中に居たとしても、気づけはしない。ただ、夏から秋に変わるように、その変化を愛でる心を忘れずに生きていければ、少しは心も色づくのかもしれない。
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