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紅い告げ口

 今、俺は我慢をしている。正直、もう限界が近い。現在は会議中だが、最後に御口洗いに入ったのは会議の始まる前だから、もう三時間ほど経つ。離席するのも憚られるが、生理現象を理性で抑えるのにも限界がある。いっそ音に成らないようにしてしまおうか。

「この会議さっきから堂々巡りですよね」

 水を打ったように、会議室が静まり返った。
 瞬、俺の口から漏れてしまったのかと焦ったが、会議室の面々の視線は俺とは対角に位置する新人の、恐らくまだ社会人二年生ぐらいの女の子に注がれている。確か所属は新規事業開発部で、名前は水野さんだったか。

 水野さんの顔は丁度、窓から見える紅葉かと見紛うほど真っ赤に染まっている。会議室は、外で吹いているであろう秋風の音さえ、聞こえてきそうだった。

「あの、どんな意見を言っても通らないなら……おもっ」
「水野さん!とりあえず、御口洗いに行きましょうかっ」

 水野さんの口からの残り言が出切る前に、新規事業部のエース、山口くんが彼女の口に手を当て、肩を抱えながら部屋から引っ張り出そうとした。

「いやね、水野さん大きい会議も初めてで、ぎりぎりまで資料の準備とかもしてもらってたもんだから、会議の前に御口洗いに行くタイミングが無かったんだと思います」

 山口くんが早口でそこまで捲し立てる。水野さんのご尊顔はもう、その場で燃え上がりそうなほど赤くなっていた。
 山口くんはそんな彼女の顔を刺さる視線からなるべく守るため、ジャケットを上から被せてあげながら、彼女とともに会議室を後にした。すぐに行動へ移す判断力、若い女の子へのフォロー、颯爽と去る山口くんの背中に彼のエースたる所以が垣間見えた気がした。

「はっはっは、まあ生理現象だからね。仕方がないよ。」
「そうですね、彼女もまだ若かったみたいですし」
「こういうのもいい経験になるんじゃないですか?」

 山口くんが会議室を出た途端、新規事業部の柏木事業部長が口火を切った。それを皮切りに、上層部の面々が堰を切ったように鳴き始める。誰かが下卑たトーンで鳴く度に、皆々様の厚ぼったい瞼の奥が、下品に鈍く瞬いているように思えた。若い女の子の恥ずかしがる場面に立ち会えたことで、少し色めきだっているのだろう。先ほどまで、おじさん連中は凍ったように動けなかった癖に、何を「調子の

「あ、すみません!俺も水野さん心配なんで、ちょっと御口洗い見てきます!」
「え?おい高橋君、君まで行く必要は無いだろう!」

 柏木事業部長の声を後ろに感じつつ、俺も急いで会議室を飛び出た。
   確かに直接の後輩でもなんでもない俺が、彼女を心配して追いかけるという言い分はスマートでは無い。ただ、水野さんの一件ですっかり忘れていたが、俺自身も限界だったのだ。緊張の糸が解れた途端、すぐにでも漏れてしまいそうだったため、駆け足で御口洗いに向かった。

 少し重い防音扉に、左肩から体重を込めながら男子御口洗いに押し入ると、口接器は全て社員で埋まっていた。

「なん……おれな……かんが……だろ……」
「あの案け……おか……いつま……」
「げん……どい……ぐら……」

 相変わらず、誰が何を言っているのかさっぱりわからない。簡単な仕切りとともに横並びに設置された口接器の殆どは、若手社員が使っているようだった。だが、ちらほら白髪頭も見受けられる。
 基本的に、肩書をお持ちになられている上層部のおじ様達が御口洗いを使うことは無い。御口を洗う必要など無いと考えているんだろうか。だからこそ、口接器に口元をぴったりくっつけて覆い、目を見開きながら何かを叫んでいるであろう白髪頭の方や、頭頂部の面積はすっかり地肌の方が大きくなってしまった方を見ていると、少しだけやるせない気持ちになる。俺の喉の奥から急激にせり上がって来ていた波が、ゆるやかになるのを感じた。

 そんなナイスガイ二人の間に挟まれ、口接器を使っているのは新規事業部のエース、山口くんだった。

 それにしても。やはり会社の御口洗いの防音性能には、目を見張る物がある。恐らくここにいる皆様は大声で思い思いの雑言を叫んでいるはずだ。中には仕事に纏わる機密情報に触れていたりもするだろう。ただ、その殆どは聞こえてこない。
 よっぽど大きい声を出した際、時折聞こえてくるのも、水中に潜った時に外の音を聞くような籠った声が、途切れ途切れに耳に入ってくるだけだ。単語として認識できることさえ滅多にない。
 御口洗いには日に何度も来るが、綺麗なビルに入っているだけあって、清掃も行き届いている上、防音についても申し分無い。恵まれた環境だと思いつつも、あまりに漏れそうなときにあの防音扉は結構きつかったりするのだ。力んだ弾みに、扉の前で漏れ出してしまっている若手社員を何度か見たことがある。無論、見なかったフリをするのがマナーだが。

 そんなことを思い出し、俺も気を付けなければと考えているところで、山口くんがこちらに向かって歩いてきた。彼の口の周りは、口接器に口を付ける前に使ったであろう消毒溶液が乾ききっていないのか、御口洗い内の照明を反射し、輝いて見える。

「あれ、高橋さんも出そうだったんですか?」
 輝く口の端を悪戯っぽく緩ませる山口くんに声を掛けられる。
「まあね、でも山口くんもだったんだ、やっぱ気苦労多いんだね」
「いえいえ、ご覧の通り他のみなさんに比べると僕は結構短いので。全然ですよ」

 そう言い残し、微笑みながら御口洗いを後にする山口くんは爽やかで、上品で、謙虚だった。こんなことなら、彼が口接器に向かってる時の顔をしっかり拝んどくだった、なんて稚拙な考えが俺の頭をよぎった。ダンディな二人に挟まれるのは少し億劫だったが、彼らは時折頭を小刻みに震わせているようなので、まだ離れられないのだろう。覚悟を決めて、空いた口接器へ向かった。

 口接器を使う前には、まず口の周りを消毒する必要がある。仕切り板に取り付けられたノズルを捻ると、粘性のある液体が出てくるので、それを口元と口接器の口を覆うお椀型になっている部分に塗りこむのだ。この時、お椀の真ん中あたりに開いている穴にも塗りこむ必要がある。この液体の成分についてはよくわからないが、頻繁に使われることが考慮されているため、肌に刺激の強いアルコールではないらしい。それでも除菌性は優れているとか。
 あとは口をお椀部にぴったりとくっつけ、真ん中の穴に向かって我慢していたものを一気に放出する。

「いつ……だよ……いい加……」

 毎度、御口を洗う度に不思議な感情を抱く。だんだんと、醒めてくるのだ。
 例えば今、自分では「いつまで同じことを言ってるんだと、いい加減にしろ」と叫んでいるつもりでも、耳に入ってくる音は籠って言語と認識できない。本当に自分は叫んでいるのだろうか、この次から次へ湧き出るドロドロした感情は果たして自分のものなのだろうか。そうやって自分のことを客観視してくるのだ。そうやって冷静さを取り戻すようになると、終わりの合図だ。
 今回は会議の前に、済ませていたこともあってすぐに終った。口接器を離れようとした途端、「ゴッゴッゴッ」と不規則な鈍い音が隣から聞こえた。気付かれないよう、そっと仕切り板の脇から隣を除くと、白髪頭のおじさまが目をぎゅっと瞑り、頭をわなわなと震わせながら、自分の膝を叩いていた。片手でしっかり口接器を抑え、もう片方の手で何度も膝を殴っていた。覗いていることがバレないよう、早々にその場を離れなければ。

 俺が外に出て防音扉を閉め切るまで、籠った声の様々な端切れと「ゴッゴッゴッ」という嫌にクリアで鈍い音が止むことは無かった。



「なあ、ちょっと太ったんじゃねえ」
「優くん、はしたないよ。そういうことは口接使ってもらえます?」

 亜美が部屋に来ていた。彼女とは大学二年生の頃に出会って、もう七年程経つ。金曜日の夜は、よく俺の部屋に来て、夕食を作ってくれることが多かった。最初の頃は「高橋くん」呼びだった筈だが、いつの間にか「優くん」と呼ばれるようになり、そう呼ばれている期間の方が長い。
 そんな亜美は昔から御口洗いに対するマナーに五月蠅い。俺自身は、亜美と居ると、なまじ付き合いが長い分、どこまでが口接器を使ったらいいものかわからなくなるのだ。だから、彼女と二人のときは基本的に口接器は使わずに過ごすことが多かった。だが、亜美からそう言った、デリカシーが無い言葉だとか、強い自己主張とか、ましてや罵詈雑言なんてものを直接言われたことはただの一度も無かった。

 結局、水野さんが大恥をかいてしまった会議はあのまま、なあなあで終わった。水野さんはあまりの恥ずかしさに早退したらしい。まあ確かに、あんな大勢の前で、華の年頃の女の子が漏らしてしまったのだ、無理もない。

「ねえ、ちょっと聞いてんの?私そういうこと言われるの本当に傷つくんですけど」
 台所で大根を切っていた亜美の手が止まり、こちらをしっかりと睨みつけている。
「あー、悪い、考え事してた。っていうのがさぁ、今日会議中に新人の女の子がさ、御口洗い間に合わなかったってことがあってさ、見てらんなかったんだよ」
 亜美の機嫌が悪いように感じたので、話を逸らそうとした。
「何急に?女の子?全然話聞いてないじゃない。私真剣なんだけど」
「悪かった悪かった。これからはなるべく口接を使うように努力するって」
「いい加減にして!」
 亜美からマナーについて小言めいた指摘を受けることはよくあったが、ここまで感情的になるのは珍しい。彼女の頬は恥ずかしさからか、赤く染まっている。心なしか瞳も潤んでいるように見えた。これはまずい、と、そっと亜美に近づきながら宥めた。

「な、なんだよ。悪かったって。」
 そう言いながら、俺がまじまじと亜美の顔を覗き込むと、彼女の黒目は室内の蛍光灯を受け、きらきらと光っていた。上気し、火照ったかにも見える顔と相俟って、俺の目には色っぽく映る。
「優くんさ、そうやっていっつも言うけどさ、私アレ使ってるとこ見たことない」
 目を合わせまいと、そっぽを向いた彼女は、いつのまにか包丁を置き、着けていた筈のエプロンも足元に落ちていた。その視線は、テレビ台の隅ですっかり埃を被った俺の携帯口接器に向けられている。しばし沈黙が流れ、暖房だけが低く唸る。

「いや、だってホラもう七年ぐらいだし、そんな今更さ、なんかどっから口接使ったらいいのかよくわかんな……」
 足元のエプロンを拾い、亜美の手に握らせようとした瞬間、勢いよくエプロンごと俺の手が振り払われた。
「なんでわかんないのよ!付き合いが長いから、おかしいんじゃん!」
 俺の言い訳が終わる前に、発作的に亜美が遮った。今まで聞いたことがないような大きな声だった。途端、亜美は顔を耳まで赤くし、俺を突き飛ばすと、急いで自分のカバンから携帯口接器を取り出し、口に当てた。亜美が口接器を使っているところは初めて見た。

「もう……わた……なん……ずっ……だけ……わた……いつ……わた……だっ……かみ…じゃ……」

 亜美の顔は真っ赤だったが、それが恥ずかしさからなのか、怒りからなのか俺にはよくわからなかった。ぎゅっと瞑ったその瞳から一本の筋が流れ出している。彼女のこんな表情を俺は見たことがない。
 ただ、時々聞こえてくる「わた」という音は恐らく「私」を意味する言葉なんだろうな、とどこか他人事のように亜美を見つめていた。口接器を強く握りしめる彼女の指は、第一関節の箇所があかぎれている。そういえば、乾燥肌だから秋になると保湿クリームが手離せないって言ってたっけ。亜美が叫んでいる内容は、全くわからなかったが、人前で口接器を使うことさえ無い彼女が、必死に口接器を掴む様からは目が離せなかった。その口接器が俺の耳で、彼女の声が囁き声だったらどれだけ良かっただろう。普段、全く自己主張をしない彼女は、その後も口接器を通して何度も何度も「わた」と繰り返していた。

「取り乱しちゃって、ごめん。今日はもう帰るね」
 口接器に叫び終わった後も、しばらくそれを外さずに肩で息をしていた亜美がいつもより静かな声でそう告げた。
「いや、俺の方こそごめん。駅まで送ってくよ」
「ううん、いい。適当にタクシー捕まえるから」
 顔色はすっかり落ち着いていたが、頬の筋だけほんのり赤い。口の両端は少し裂けていて、血が滲んでいた。
「おい、口元、裂けてるよ」
「ああ、これ。この季節は空気が乾燥して嫌ね」
 そう言って、亜美は人差し指で口の端をちょっと触り、指先に付いた血を見る。いつもは気にしていなかったが、そんな仕草や、その仕草を司るあかぎれた亜美の関節も、血のついた指先も、少し裂けた口元さえ痛々しく、愛おしく思えた。

「じゃあ、行くね」
 亜美は乱暴に口接器を掴むと、カバンに仕舞った。その時、彼女の白い口接器に指先の血が少しだけ付着した。
「本当に送るって」
 俺は他にどんな言葉を掛ければいいのか、わからなかった。付き合いが長い恋人があんなに「わた」を溜め込んでいた事実を受け入れられなかった。亜美は俺の声を無視してそのまま玄関へ向かう。俺も慌てて追いかけたが、彼女をこれ以上引き留めることに躊躇してしまい、黙って彼女が靴を履く様子を見つめていた。
「じゃ」
「あの、今日は本当にごめん」
 ぶっきらぼうに別れを告げる亜美に、懺悔の言葉を投げかけたが、彼女は何も言わず扉を開けて外に出て行ってしまった。開いた扉が閉まるまでの間、空っ風が部屋に入り込んで来ていた。

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