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 あの、これ、いります? 気がついたらそう声に出していた。その女は、四人掛けのテーブルを真ん中で仕切るアクリル製の透明の板越しに、俺の目をしっかりと見ていた。口にした自分の声が、まるで他人の声のように聞こえた。あまり深く考えることもなく言葉は音となり俺が何かを考えるのよりも先にそれはアクリル板を飛び越えて、そして女に届いていた。え、いや、あの、いらないです。女は少し戸惑った様子を見せて、そう返事をした。なら別に、いや、ずっと見てるから、その、欲しいのかな、と思って。女は俺よりも後から店に入ってきて、空いている席が他になかったので、感染対策のパテーションで仕切られてはいたが相席という形で、俺の斜め向かいの席に、お笑い芸人かなにかにいそうな顔の店員に案内されて座った。タキシードのような制服を着た店員の男のくるくるに丸まったパーマはカリフラワーみたいな形をしていた。女は席につくなり、持っていたコーチのバッグからアイコスを取り出して、立て続けに三本、ひっきりなしにその煙を吸った。それも、ものすごく美味しそうに吸ったのだった。何年か前までは俺も煙草を吸っていたことがあったが、当時の彼女に強く言われて、吸うのをやめた。正確に言えば、彼女に言われたから、というのもあったが、年々どんどん厳しくなる世間の風当たりから、激減とも言えるほどに減った煙草を吸える場所や機会の少なさに耐えられなくなり、習慣として喫煙することがなんだか馬鹿らしく思えて、吸うのを辞めた。だから日常的に煙草を吸うことはなくなっていたのだが、その彼女とはとうの昔に関係を解消していたし、飲み会でたまにひとから貰って吸ったりすることも時々はあったし、ちょうどいまも、しばらく前に職場の先輩が海外のお土産でくれた手巻き煙草が鞄に入っていた。アイコスを美味しそうに吸う女を見ていたら俺もなんとなく煙草が吸いたくなって、海外製の刻み煙草をペーパーで久しぶりに手巻きした。ローラーのような仕組みで動く専用の器具を使えばもっと綺麗に巻けるのだが、そんなものは持ち歩いていなくて、久しぶりだったことと、葉っぱがかなり乾燥してしまっていたこともあって、手だけで綺麗な形に仕上げるのが案外難しかった。むかし煙草を吸っていたころに、飲み屋で手巻き煙草を巻いていたら、カウンターの隣の席にいたおじさんが、懐かしそうにその様子を見てきた。おじさん、と言ってもそれなりの歳で、もはやおじいさんと言ったほうがいいのかもしれないが、よかったら、と勧めると、おじさんは嬉しそうに、そして器用に、手巻きで煙草を巻き上げた。英和辞書の紙がちょうどよかったんだよ。おじさんは、巻き上げた煙草を早速吸いながら、昔は煙草用のちょうどいい紙があんまりなくてな、辞書のページをちぎってそれで巻いていたんだ、だから俺の持ってた辞書はページが減ってスカスカで、そのせいで俺はいまでも英語はダメなんだ、というようなことを話をして、笑った。巻き上げた煙草の紙のフチを軽く舐めて糊付けし、アイコスに対抗して巻き上げた俺の煙草は完成した。優しく息を吸い込みながら火をつけ、それから、ほんのりと甘い、バニラの香りの煙を胸いっぱいに吸い込んでから俺は時間をかけてゆっくりと吐き出した。漂うその煙とアクリル板の向こうに見える女は、吸い終わった3本目のアイコスの吸い殻を手元の灰皿に放り投げるようにして入れると、また俺の方をみて、そして俺と目が合った。俺が煙草を巻いている時から、女が俺のほうをチラチラと見ているのを俺は感じていて、それで、ほとんど何も考えることなく、俺は女に手巻き煙草を勧めた。いりません、と一度は言ったが、その後で、せっかくだからやっぱり貰おうかな、と言って女は葉煙草のパックとライターをアクリル板の横から回した俺の手から受け取った。パッケージと外装のビニールの間に挟んであったフィルターとペーパーを取り出して、決して手慣れた様子というわけではなさそうだったが、女はけっこう上手に煙草を巻き上げた。そしてそれをまた、とても美味しそうに吸った。その煙草がきっかけで俺たちは話すようになり、テーブルの上のアクリルの仕切りをずらして、それからしばらく、互いの仕事や趣味のことを話した。その時店内にはサンタナのブラックマジックウーマンが流れていて、女は指先で軽くリズムを取っていた。俺があげた紙巻き煙草を吸い終わると、女はまたアイコスを取り出してもう一本吸った。そもそもこの店は、令和になったいまでもまだ店内で煙草が吸える、という時点で察しがつきそうはものではあるが、伝説的な純喫茶とも言われているカルチャー色の強い店だった。わざわざ好き好んでこういう店に来ている同世代となれば、それだけでもう話が合わないわけもないようなものなのかもしれないが、好きな物、生き方、興味、全てが全て同じというわけではないにせよ、俺は女と話しているのがなんだか居心地が良くて、妙に話が弾んだ。流れている曲はストーンズの悪魔を憐れむ歌に変わっていた。ミックの声に合わせて女はときどき小さな声でハミングした。こういうのも知ってるんだ。少し驚いて俺がそう言うと、小さく笑って、当たり前じゃん、と答えた。金属音のような力強く鮮烈なギターのソロを音が鳴り響いている。それぞれの前に置かれたコーヒーカップはもう空になっていた。ややラテンチックなパーカッションの音を聴いているうちに、何かの映画でこの曲が使われていたのを聴いたことがあるような気がしたが、それが何の映画だったのかを思い出すことはできなかった。テーブルの隅に置かれたままのお冷のグラスの側面を結露した水滴が伝い落ちて、テーブルの木が濡れる。テーブルに水がゆっくりと染み込んでいく様子を、俺は眺めていた。あのさ、ことあとってさ。今度は女から声をかけてきた。俺は会社の飲み会までの時間潰しにこの店に来ていたので、そのことを伝えたら、待ってるから終わったら一緒に飲もうよ、わたし明日仕事が休みでさ、と女が言って、俺の飲み会の後にふたりで飲むことになり、それで俺たちは、それぞれに席を立った。店のスピーカーからはドアーズのストレンジデイズが流れ始めたところで、曲が発表された当時としてはかなり先進的だったのであろうムーグシンセサイザーの幻想的な音が鳴り響いていた。結局、その後の一晩で、俺はなんだかとんでもない量の酒を飲んだ気がする。最後の方のことは最早もうあまりよく覚えてもいないが、喫茶店を出て女と一緒に移動して、俺の飲み会までの三十分をふたりで飲み、俺は会社の飲み会に出て、それからまた女とふたりで飲み、その二軒目の店を出て、終電が終わる前にはふたりで移動した俺の部屋でまた飲み、途中のコンビニで買ったワインを何本か空にして、飲み終わって眠りに着いたのは、すっかり明け方になってからのことだった。店で一緒に飲んでいるうちに、俺にしては珍しく、きちんと関係を築いていきたいというような気になっていて、きょうはそのまま電車に乗ってそれぞれで帰ろうと、本当に思いながら俺は駅までの道を歩いていたのだが、どういうわけか、改札に着く頃には俺はその女と付き合うことになっていて、結局、ふたりで俺の部屋に帰った。思い切りの良さと、控えめそうな顔立ちや振る舞いの奥に潜む女のその積極性に、俺は実のところ、やや圧倒されてもいたのだが、しかし、それでも悪い気分ではなかった。付き合うという話をセックスをする前にきちんとするということからして、そもそもずいぶんと久しぶりのことだった。わたしたち付き合っちゃわない? 駅までの道を歩きながら、ふと会話が途切れたときに、女がそう言った。それを聞いて、澄ました顔でいるように心がけたその内心で、俺は死ぬほどドキドキしていた。同じドキドキでも、たとえば、十代の頃の恋、といようなのとも少し違う。第一、飲んでいる酒の量からしたってその頃とはべらぼうに違うわけだが、それでも、ベロベロに酔っ払ってはいたが、この人とはちゃんと付き合えそうかもしれない、というような予感がするような気がして、俺の手を握る女の手を、俺は強く握り返した。さすがにそろそろ寝よっか。明け方になって、買ってあったワインをふたりでほとんど全て飲んでしまった頃に、女がそう言って、俺はテーブルの上にあったリモコンでシーリングライトの照明を少し落とした。床に並ぶ空っぽになったワインボトルを倒さないように気をつけながら、カーテンの隙間から差し込む夜明け前の青白い光に照らされた部屋を横切り、倒れ込むようにして女と俺はベッドに横になった。服を脱がせてやると、女はすこしだけはにかんだ表情をして、手で自分の裸の胸を隠した。女の脇腹をそっと指先で撫でると、ほんのりと汗ばんでいて、俺は急に、夏と、それから、リビドーを感じだ。後ろから抱きしめるようにして女の髪の匂いを嗅ぐと、なんだか懐かしい匂いがした。シャンプー、煙草、汗、そして女の匂い。どこかで嗅いだことがある匂いというわけではないはずだが、なんだか心が安らぐ匂いなような気がした。薄暗いなかで、目と目が合った。女は、じっと俺の目を見ていた。女とするキスの味は、アイコスのメンソールの味がした。
(2022/07/15/01:03)


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