アトウッドの「誓願」とは?
『誓願』マーガレット アトウッド (著), 鴻巣 友季子 (翻訳) (ハヤカワepi文庫 )
『侍女の物語』を世に出して、その続編を望む声が多かったのにも関わらずすぐに書けなかったのは、現実世界のほうが遥かにディストピアに成って行ったからだという。それでも続編を望む声は多く、一応の決着は付けたと感じなのだろう。前半の暗澹たる描写は読んでいて楽しいものではなかった。
特に男性はそう感じるだろうと思う。それとイスラム社会の女性蔑視とか似たような事件が未だ解決されてはいない。日本でも大物芸能人?の女性接待事件とか、そんなニュースが正月から飛び交っている。
今『源氏物語』を読み直しているがそういう伝統は日本にもあったのではないか。それは、『侍女の物語』を読んでいるときも感じたことではあるが、父権社会で女性は部屋で待ち続けているというのは、「侍女性(制)」の現れではないかと思うのだ。
それがオリエンタリズムと評価されることも、イスラム世界とも重なっていく。ただそこに原理主義も描かれているから『源氏物語』は父権社会の批評の物語としても読めるのだ。この物語がフィクションで架空のディストピア社会のことだ安心して読める人がどのぐらいいるのだろうか?そう思うとラストになるにつれて明るい感じになっていくのは、著者の願いもあるのだろうけど安易な感じがしたのだ(昨今のシスターフッド的解決)。
『侍女の物語』は後世の者達に伝えるためにしたためたオブフレッドの手記であったのだ。その世界から娘たちの世界の回答という結末なのだが、そこに関わっていくリディア小母を中心とする小母たちの世界は『源氏物語』の官女の世界なのであろう。中国に矯正された宦官に近いものが小母たちの世界にはあり、そこでは産むことを拒否した官僚制なのだが、そこに父権社会の男性中心の中に生き残らなければならない女性たちの姿が描かれていると思う。
そこにあるのは極端な原理主義であり、見せしめのしての刑罰(八つ裂きの刑とか『地獄篇』の描写だ)、そのリディア小母の官僚的なあり方の裏側も描かれているのだが、それを邪魔しようとするのも小母たちの世界であるというのは日本の権力側にいる女性の国会議員見れば理解出来るだろう。彼女らは男性からも女性からも支持され、日本の社会を維持しているのだった。それはここに描かれる小母たちのような権力機構だろう。
それに太刀打ちできるシスターフッドというものは日本にあるだろうか?と考えるとないのである。やはりそうした女性たちは叩かれる。アメリカや韓国で起きているそういう女性解放運動はまだまだこの国は遠いことなのだと思ってしまう(逆に最近ではその反動で保守化しているのだと思うが)。