西日から光線覗く秋の雲
昨日の写真。雲の間から光の線が出ていた。昨日は雲日和と言ってもいい天気だったけど夏バテで買い物に出たぐらいだった。
駅までは以前だと早歩きで10分で行かれるのが最近は15分ぐらいかかるようになってしまった。登り坂というのもある。夏は駅までいくまでも一苦労だった。スーパーが駅近なんで、涼むという口実でサイゼに入った。
いつものように端っこのひとり席に案内されたのだが、向かい側に赤ん坊を抱いて、まだ幼い子供を連れた母親が座った。子供はわんぱく盛りだけど、けっこう母親の言うことを聞いていた。
突然泣き出して、舌を噛んだという。子供も大変だよなと見ていたら、不思議な説得の仕方で泣き止ませていたのだ。怒るのではなく、自分も舌を噛んで痛かったと。それで子供は泣き止み、デザートを頼んで円満な家族情景に戻った。こんな美味しい食事は久しぶりだったと言って満足した夕食を終えていた。こういう母親は凄いなと思いながら見てしまったのだが、サイゼは人間観察の場でもあるよな。
『ドン・キホーテ後編』を読もうとサイゼに持っていたのだが、読書は出来ずに帰ってきた。部屋でも昨日は寝てばかりだ。風呂場で萩原朔太郎『詩の原理』を少し読んだ。
『詩の原理』では、詩は主観的で音楽、日本には短歌がその例であるというような。小説は客観的で絵画。俳句がそうなのだが、ただこの客観というのも主観を通しての客観で、芸術は主観的なものであると。その分類をするのだが、要は主観的な芸術は直感的な時間論なのか。美の絵画的の方は客観的な技術が必要とされる。それも芸術であるから直感的な内面の捉えるのが印象派などにでてきた。印象詩の解釈も興味深く書いてあるのだが、そんな朔太郎も戦意高揚詩を書かねばならなかった。
『詩の原理』では古典派、高踏派は保守的になりやすく、象徴派、自由詩は個人の表現を重要視すると書いていたのにと思ってしまった。まあ、朔太郎がニーチェ支持者で超人思想があったからだという意見もあったのだが、朔太郎のニーチェ支持はあくまでも個に拘ったからだと思う。道化ということも入るのだ。その諧謔性が彼の詩にはあった。詩論はあまり読まなかったがポーの詩論といいい、朔太郎の詩論といい、かなり面白い。
芸術の彼岸性はそういうことだった。雲を見ても彼岸性を感じる。特に昨日のような天気の日には。
そのまんま。