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裸一貫で出直すのは困難であるから「ギフト」を下さい

『往復書簡 限界から始まる 』上野千鶴子 , 鈴木涼美 (幻冬舎単行本)

「上野さんは、なぜ男に絶望せずにいられるのですか」?
女の新しい道を作った稀代のフェミニストと、その道で女の自由を満喫した気鋭の作家が限界まできた男と女の構造を率直に、真摯に、大胆に、解体する。

「しょせん男なんて」と言う気は、わたしにはありません。――上野
・女の身体は資本か?負債か?
・娘を幸せにするのは知的な母か?愚かな母か?
・愛とセックスの分離から得たもの、失ったもの
・家族だけが磐石だという価値観は誰に植え付けられたのか?
・人間から卑劣さ、差別心をなくすことはできるのか?

目次
エロス資本
母と娘
恋愛とセックス
結婚
承認欲求
能力
仕事
自立
連帯
フェミニズム
自由


――崖っぷちの現実から、希望を見出す、手加減なしの言葉の応酬!

出版社情報

 この本は面白い。鈴木涼美は『ギフテッド』で芥川賞候補になった作家だが、元AV女優と肩書がついていた。で、そういう枕詞で見てしまうが、東大の大学院で社会学をやって日経の記者であったのも事実なのだが、元AV女優というプロデュースの仕方は、上野千鶴子 ,と鈴木涼美の往復書簡を読むことによって丸裸にされる。この本が凄いことは普通こういう企画ものはそれほどプライベートに立ち入らないのだが、ずばずば上野千鶴子が切り込んで、鈴木涼美を丸裸ににしていくのだ。ちょっとAVより際どいと思うぐらいに(上野千鶴子も自身のプライベートを展開していく)。学者は感情を発露するものではないという禁を破ってまで鈴木涼美に関わっていくのはなぜなんだろう?とそんな疑問もあるが、上野千鶴子は母親になれなかったことを擬似的に家族というように見せているのだろうか?ここにあるのは母と娘の疑似往復書簡のような気もする。

「ギフト」(連帯)

 そのな中で上野千鶴子に「ギフト」というコトバが出てきたのだ。親から知らずの間に与えられたもの。それは良いことも悪いことも「ギフト」と呼ぶ子の資質みたいなもの。それは例えば上野千鶴子は独身で子供もいないが、なにかしらの「ギフト」を鈴木涼美に伝えようとしている。それがこの往復書簡から受け取れるのである。そのコトバがから出たのが鈴木涼美の最初の小説『ギフテッド』だと直感したのだ。

それは、大江健三郎がかつて言ったリレーの「バトン」というようなもの。われわれ作家はフォークナーの子どもたちなのだとヴォネガット(ちがったかな?)と語っていたことと繋がる。
 そしてこの往復書簡での上野千鶴子の言葉は鋭い。

上から目線と言われても、あえて言いましょう、ご自分の傷に向き合いなさい、痛いものは痛い、とおっしゃい。ひとの尊厳はそこから始まります。自分に正直であること、自分をごまかさないこと。その自分の経験や感覚を信じて尊重できない人間が、他人の経験や感覚を信じて尊重できるわけがないのです  上野千鶴子

『往復書簡 限界から始まる 』上野千鶴子 , 鈴木涼美

承認欲求について

 例えば現在の社会的価値が金を稼ぐことにあるとして上には上がいるから、そこで下のものを見くびることで承認欲求を得るとする。その虚しさというか自身の価値ではなく他人との比較によってランク付けをする。
 それはSNSのいいねの数だったりするわけだ。そうするとその数だけを稼ごうとすることによって承認欲求が高まるがその満足値はどこにあるのか?トップを見極めたいのか?その無駄な努力と智慧を自分のために使えれば他者の評価など気にしない。つまり他者に自己評価を売り渡す必要もないわけで、自分が好きなことをやっていれば良い。それは自分の好きなことを受動的にやるのではなく能動的に愛することだと上野千鶴子は言っている。
 それはいい女という性的なはけ口にしかならずそれが気持ちいいセックスだと勘違いしているだけだというのだ。それは若さゆえに性的価値は上がるが年取るに従って減価償却されていくように価値が下がっていく(熟女ブームというのもあるが、基本価値が下がると無理なSMとかやらざる得なくなる)。

その実例とかいうような映画が『㊙色情めす市場』で年取った母は価値が下がり娘に取って代わられる。そして何より駄目なのは妊娠してしまうことだった。そこで上がるか、女を働かせる女将になるか?このヒロインの母親は、ただ消耗させられてドブに捨てられていくのだが。

 最終的に家父長制的な中央集権的なものがあり、ピラミッドの頂点に簒奪されるようなシステムが資本主義なのだ。だから金持ちは女を買うしその取り巻きも多くなる。が、金がなくなればみるも無惨な姿を晒すことになる。
 技術としてテクノクラートは金を稼げるが、芸術は価値を生み出す。それは他人による承認欲求ではなく能動的な愛の行為なのだ。愛とか言うとちょっと臭いけど。ラブ・ファンタジー幻想はどこの世界にもあるのだが、ロマンティック・ファンタジー幻想(ハーレクイーンのような)待っているだけじゃ駄目なのだ。

 それは精神分析を通じてユング派のグレート・マザー信仰にもあるのかもしれないと思った。日本でいうと村上春樹や宮崎駿の文学的思想の世界に河合隼雄を通してのサブ・カル文学的素養が男たちのロマンにあるのではないかということを匂わせている。それはフィッツジェラルド『夜はやさし』の主人公がまさにユング派の臨床医で患者とされるのは妻である病んだ女という構図。その構図は近代文学の伝統として男性中心主義の中に組み込まれている。例えば、ザンブレノ・ケイト『ヒロインズ』の過激なフェミニズムは告発する。

しかし上野千鶴子はそのようなかつてのウーマンリブのような過激さには組みしない。それはやはり学者故なのか本の中に理想の男の姿を見ているのだった。例えば『死の棘』で妻と共に病んでゆく夫を描いた島尾敏雄を評価するように。フィッツジェラルドも評価するかもしれない。そこが分かれ目なのかな。第2世代のフェミニズムには上野千鶴子以上の過激さがあるようだが、それも二極化して一方では鈴木涼美のように男性社会に乗っかりその中で生き延びていくテクニックとしての女のあり方。それは上野によって減価償却される肉体だと見なされるのだが。

仕事

 例えば、フリーのライターになる困難さの話が出てくる。結局、雑誌媒体だと単価はどんどん安くなり、ネット媒体は無料化が多いから一部の者しか利潤は上がらない。ライターで在る前に枕詞が必要なんだということ。例えば元AV嬢でもいいけど。ただその時の賞味期限というものがあるので、また同じくそれを目指している者たちの若返り化もあり、編集者はハイエナのように食い尽くすだけだという話。 
 それを乗り越えるのはスキルが必要だということで、鈴木涼美も文学の挑戦だったのかもしれない。その時の上野千鶴子のアドバイスとしては文体を変えるということだが、確かに『ギフテッド』はそれまでと違う硬質な文体を目指していたわけだった。
 ただ上野千鶴子は小説家という安易な道を選んで失敗する例も数多くあるという。参入しやすさは、それだけライバルも多いのだ。だったら自分の書きたいものを書くことだけじゃないかと思うのだ。


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