役に立たない情報の方が好きなのかも
『大山道今昔―渡辺崋山の「游相日記」から』金子勤
歴史に疎いので渡辺崋山は名前だけは聞いたことはあるが、さて何をした人だったか?となるのだった。
有名なところでは「蛮社の獄」で幕府に逮捕され幽閉された人で、後にそのことが原因で自決する家老だった偉い人だった。「蛮社の獄」はアメリカの船が日本の難民を連れてきたところ武力で追い返されたので、それはどうかな?という幕府に反する『慎機論』の草稿が見つかって逮捕されたのだった。
本を読んでいて「啓蟄の刑」にされたと書いてあったので土に埋められたのかと思ったら家に軟禁されただけだった。「蟄居(ちっきょ)」は江戸時代の刑罰の方から冬が終わって虫が外にでてくることを「啓蟄(けいちつ)」といったそうなのだ。
渡辺崋山は文人画としても有名で、俳句も嗜み、それで大山詣の旅日記「游相日記」を書いたのだ。その大山道を辿りながら渡辺崋山と大山道から伺える街の変化を述べたものだった。
著者が長津田(田園都市線で渋谷と町田の間)に住んでいるためにそのへんの地理の紹介は詳しい。大山詣として江戸時代に栄えた大山道は旧厚木街道(246)なので普段から親しんでいた道だった。最も旧道はめったに通らないが。その地名ごとに言い伝えがあって面白い。
渋谷周辺とか昔は農村だったんだとか。多摩川で鮎が捕れて献上したり。渋谷川はタナゴやウグイ、ウナギなど捕れたというが今は暗渠になっているのだろう。そう昔のことでもないんだよな。与謝野晶子の短歌が残っているぐらいだから。
「草かれて秋に長るる渋谷川 みどりに去りし夢の浮かばぬ 与謝野晶子」
三軒茶屋はもともと休憩所としてのお茶屋があった場所で、上馬中馬には、源頼朝が平泉の義経征伐の途中で名馬が病気になった為に葬られた場所ということだ。馬絹は実際に馬の練習場があった場所だというし家の近くの恩田村は御上に逆らうような人が多くて開発が遅れ今でも田園地帯として残っているとか。
江田、長津田は宿場街として、常灯籠(夜間灯)もあったとか。そう言えば今でも残っているそうだ。今度行ってみよう。あまり駅の反対側は行かないのだが。
長津田を過ぎるあたりから、渡辺崋山「游相日記」の話が多くなる。渡辺崋山は侍で身分も高いのであっちこっちで歓迎されたようだ。もっとも長津田の俳人は、最初そっぽを向いていたのだが、渡辺崋山が偉い人だとわかると態度を豹変させて、ぜひ泊まって記念に絵を描いて欲しいと厚かましいことを言ったりしたそうだ。
渡辺崋山「游相日記」の最大な山場場は華山が幼い頃にいた女中のお銀様との再会シーンだろうな。子供を産んだ為に追い出されたようで、その息子に頼まれて華山はお銀様の居所を探したようなのである。最初はわからなかったようなのだが、お銀様が華山とわかると涙の対面だった。そこは絵入りで詳しく語られていた。
それから方々で酒盛りという感じの日記だった。大山あたりにも結構俳人が多いらしくて、華山も招かれた家主の俳句なども記録していた。大山に芭蕉の句碑もあるということだが、先日見た句碑は芭蕉のものだったのだろうか?
月の文字が見られるから、芭蕉の句だと思ったら違ったみたい。芭蕉の句碑は、
山寒し心の底や 水の月