シン・短歌レッス47
今日の一句
ドンキーの水槽。魚の名前がわからん。パラオから来ているということだった。水槽で魚を飼うことはエコロジーの観点からいろいろ意見があるようだけど、かつて熱帯魚を飼っていた身としては仕方がないのかなと。癒やしということを求める社会だから、それによって格差があって、階級的に上位のものは癒されるけど下位の者は悲惨な生活に甘んじているという。熱帯魚も乱獲の方法が海に毒をまいて捕獲するとか、そういうのが資本主義社会の構造化されているのは、米軍が毒を下水道に流したのを地下道の水を飲んで害があるとか一般的にはあまり知られていない。『フェンス』でも基地のそばの水は生水は飲むなというシーンがあった。
これは川柳だった。
『源氏物語』和歌
光源氏の『源氏物語』は終わってここから宇治十帖に入る。「宇治十帖」は複雑で帖も長くなっていくのだった。角田光代の現代語訳でも一巻まるまるそうだった。もう『源氏物語』がモダン小説だとしたら、「宇治十帖」はポスト・モダン小説な感じ。
この歌もいきなり『若きウェルテルの悩み』のような薫の和歌を取り上げている。薫は女三宮と光源氏の息子なのだが亡くなった柏木が本当の父だったという出生の秘密を知ってしまう。匂宮は、明石中宮と今上帝の息子であることは代わりなく、光源氏の正統の孫のように紫の上にも可愛がられてきたのだが、薫に非常にライバル心を燃やす。それは薫が建前上は光源氏の子供だからだと思うのだが、物語の主人公が二人になってしまった。それぞれ光源氏のキャラを受け継ぐのだが政治的なやり手の面と遊び人の面と。上の歌は独泳歌で独り言のような自我の発露です。この帖はイントロ部分でそれほど大きな事件はなく、「匂う兵部卿、薫る中将」(匂いの宮は人工的な香り、薫は体質が匂う、今考えると逆のような感じだが)というライバル関係を示している。
『源氏物語』和歌十首
按察使大納言はかつての光源氏のライバルであった頭の中将の息子であり、柏木の弟で蛍宮の妻である真木柱と再婚している(このへんの系図は本を見なければ理解できないので覚える必要はないと思う)。要は位が高い人伯父さんで娘の中君の婿にしたいと思っている。按察使大納言は家に見事な梅が咲いたので、訪問して下さいと匂宮に歌を贈った、その返歌なのだった。匂宮はそれを断った歌だという。匂宮が心を寄せていたのはその上の姉である大君だったのである。大君と中君の姉妹(後でもう一人現れるのだが)と薫と匂宮の恋の駆け引きが始まるのです。
桜花を賭けて大君と中君が碁をする玉鬘邸の女御たちの唱和歌であるという。玉鬘は髭黒大将と結婚したのだが、ここも複雑な人間関係で玉鬘の娘が大君と中君のようだ。その前に出てきた按察使大臣の大君と中君とは別人。『源氏物語』の女性は名前で呼ばれることはないから複雑になる。ここは複雑なのは玉鬘が尚侍として帝(八の宮)の妻になって、亡き先妻(北の方)の子なのか?ここはもう一度読まないとよくわからない。この帖は玉鬘のその後の行方的な帖で、光源氏を反故にした報いとして苦労話が出てくるのだ。二人の娘も玉鬘のネガティブ面を引き受けてしまったのかもしれない。
大君と中君の父親の八宮は光源氏の弟だった。年老いてから世間に忘れられていた宮なんだが、読者にしてみれば突然出てきた印象。八番目ということだから、それまで無視されていたのだろう。そんな八宮は都の屋敷が火事になって宇治に移り住むのである(そこで「宇治十帖」なのだ)。橋姫というタイトルが橋姫伝説を連想させる(二人の男に愛されたために川に飛び込み自害する)。水鳥は通常中のいい夫婦をいうのだが、ここでは娘二人のことのようだ。八宮を見舞う薫がその娘を垣間見る。この歌は八宮から始まっていた。
八宮が自分亡きあとの娘の後見人を頼むときの歌。ほとんど晩年の光源氏が三宮の降嫁のときと同じ展開だが、大君はそれに反発して薫との結婚を拒否し続けるのだった。これは父の遺言を結婚するなと取ったと言われる。ここがミステリーなのだが近親者に嘘を付いていた者がいるために起きた悲劇とも言える。
八の宮が亡くなり一周忌の供養に薫が訪れ大宮に捧げた歌への返歌。薫の歌は
「総角」は若い男女の髪型である揚巻から来ている紐の結び方。薫は当然大君と結ばれるものと思っていた。大君は法事の席にこの歌はないだろうと思ったという。薫が当然と思っていたことが、大君には貴族の横暴さに思えたのかもしれない。大君の歌は死をも暗示しているという。
この大君の歌は紫式部が尊敬する伊勢の歌にもとづいているという。
主人が亡くなったときに女房たちの涙を撚り合わせて主人を弔うというような意味。それを考えると大君は中君と引き離されることを拒否したのだ。
大君が自死して中君が匂宮と結婚(薫が譲る)して栄転に喜ぶ女房たちだったが、そういう展開にはならない。大輔君は古歌を引歌にしたという。
しかしそれより先に弁の君(宇治に留まって尼になった)は
二人の女房の喜びの歌と悲しみの歌
今上帝も娘、女二宮の行く末を心配し降嫁を薫に打診する。女性は自分から動くことがないから今より大変な時代なのかもしれない。一番権力(表向きか)がありそうな天皇が娘の心配をしなければならない(もっとも天皇の娘は独身を保たねばならないという風習があったのだが、結婚することは内 親 王から降嫁するということ)。
その時の様子は、碁の賭け事のものとして女三宮を捧げるということだった。それに困って薫は菊を添えて歌を贈る。
普通の花なら受け取る(折らせてもらう)のですがという断わりの歌だという。結局、薫は女二宮と結婚することになる。匂宮は夕霧の娘六君と結婚して、中君はそっけなく離れていく。中君と薫との関係(薫は中君に大君の面影を見て言い寄る)から逃れるために浮舟(異母妹の三姉妹だったのだ)の話を持ち出す。ここでラスト・ヒロイン浮舟が登場です。
浮舟を宇治に隠した薫が弁尼と交わした歌。浮舟は八宮の妾の中将君は亡き八宮の後に常陸介の妻になり、邪魔な浮舟を中君に託した。浮舟は玉鬘のような存在になるのだが弁尼にあずけられていた。その弁尼の浮舟についての歌。
「色変はり」は薫が大君から浮舟に恋心を抱くことを言っていたのだが、薫の中ではあくまでも大君の形代(身代わり)としての浮舟なのである。薫は別の歌を詠んでいた。
「見し人」は亡き大君。これも今考えると浮舟を慰みものように扱う歌だが当時の女性の地位はそういうものだったのである。
匂宮が浮舟と関係を結び舟で連れ出す。薫によって東屋に隠されていたが薫の体臭を調合して浮舟を騙したのだ。しかし浮舟は匂宮の情熱にほされてしまう。この歌も引歌があり
浮舟の返歌。
「浮舟」は「憂き舟」と掛詞で不安を伝えている。
浮舟の失踪。小宰相君はほとんど物語の重要人物ではないのだが、女一宮(薫は女二宮と結婚しているが女一宮に憧れる)の侍女。わたしなんて恋の相手の数に入ってないという歌。この歌を物語に載せたということは侍女はそういう役割もあったということであり、光源氏が姫たちに近づけたのも侍女の力添えがあったということだ。小宰相君は匂宮からも言い寄られていたのでいい女だったのだろう。ここも面白い場面だ。小宰相君が浮舟の代わりにわたしでどう?と問いかけの歌をしたのだが薫の返歌はOKした歌だという。
薫は小宰相君に慰められたのだった。
浮舟は入水したが横川の僧都に助けられた。僧都の妹尼が亡き娘の代わりとして看病。かつての娘の婿が浮舟にいいよって来たときの歌。その中将の贈歌は
その後に浮舟は出家する。その時に中将に贈った拒絶の歌は
題名の「手習」は手習い(書の練習)の歌を詠むことだという。
やっと終わる。「宇治十帖」全部を見回した改めて複雑なストーリーだと思うが薫は浮舟の弟小君に歌を贈ったのだ。仏道を志す小君を手懐けて(光源氏にも同じようなシーンがあった)浮舟に近づこうとしたが浮舟の決意は固く弟の手紙も読もうとはしなかった。浮舟は返歌せず浮舟との橋も崩壊していた。けっこう凄まじい薫の欲望だと思うがそれでも薫が奥手と言われている(匂宮と比べた場合だろうか?)。
川柳レッスン
川柳とか俳句とか自由律とかそういう区別はどうなんだろう。そこで頑張っている人がいるから一概には廃止せよとは言えないが、自分の進む道が定まらない。俳句なのか川柳なのか不明。自分の場合は短詩でいいんだと思う。短歌との区別はあるんだろうか?文字数による違いだけ?
模範十句は今日も『時実新子 川柳の学校』。なんだかんだ文句書いているけど天邪鬼だからであって、結構この本いいんだよな。川柳のテクニックが50音順に川柳で紹介されていたり。
「百」という数字がたくさんという意味を象徴する。まあ百句作れば一人前かな。
川柳は人、俳句は風景というけれど脱獄囚の意味がわからん。眼のクローズアップということだった。逆説なのかな。脱獄囚以外の眼はなんらか濁っている。
「魚」に自分を重ねてしまう代替願望だという。そういえば魚の句を最初に作ったが代替願望というのではないな。
修正句
「父の死」の歌は一句一訴ということ。「わたくしは」のリフレインは最初の言葉と後の言葉では意味が違うような。最初は肯定、後は疑問なのかなと思う。「父の死」を望んでいながら後で父を愛していたという映画を見ている。
ミイラの句は意味不明。事実でない怖さだという。フィクションの世界か?選者が少女のミイラを博物館で見て怒りを感じたことがあったのでこの句に共感したという。なるほど。沓は棺に置かれた沓ということに注目して、ミイラを立たせたという。なるほど。
川柳は物騒だな。でもこれは殺してないから詠める句であって、この場合妻は強靭な死ぬような人ではないのだ。その妻を殺してくれるなら会えるということか?川柳はフィクションを楽しむことだがその裏を読む。
だんだん川柳がわかってきた。この句のトンボは死んでいるのだけど、葬送曲をイメージして空に飛ばすのだ。
「てのひら」二句目。これは全部ひらがなで読みにくい。うすくらがりでは自分のてのひらさえ裏表がわからないという句だろう。ひらがなにはなめらかさがあるということだった。
単に面白い現実を詠んだということだった。たまたま先にトンネルに入った人がいたのだろう。そうか同じ悩みだったが二人で話しているうちに解決したということかも。
「雨」の句は自分は濡れているから、相手も濡れほしいのだ。「も」は私が隠れているという。だいたい合っていた。ただこの川柳は七七五の破調だった。川柳の場合は頭でっかちでも最後の五音で締まるという。
映画短歌
今日は『郊外の鳥たち』。
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