言葉が斧のような小説
『パトリックと本を読む:絶望から立ち上がるための読書会』ミシェル・クオ ,(翻訳) 神田 由布子
「高橋源一郎の飛ぶ教室」で紹介された本。
最近流行りの読書会ものと違うのは、共感の先に表現することがある。それは生徒であるパトリックも勿論そうなのだが、語り手自身もパトリックを通して語ることを学んでいるのである。それは相互扶助的に他者を必要とする行為なのだ。ただ仲間うちでの読書会ものと違うのはそこにあると思う。それは語り手のカフカの言葉に集約されていると思う。「高橋源一郎の飛ぶ教室」でもそこを一番最初に指摘している。
語り手の先生(ミシェル・クオ自身だと思われる)は台湾移民系のアメリカ人なのである。彼女は両親からアメリカで生きていく為のエリート教育を受けたが、そのアメリカの司法制度が資本主義社会の構造の中にあって企業の論理で支配する停滞した社会だと気づくのである。それは弱者を救うためにロースクール(法律学校)に行っても最終的に満足な生活を求めるには企業倫理に従わざる得ない資本主義社会なのだ。そのことがパトリックの出口なしの犯罪社会と繋がっていると気づくのである。パトリックを通して。パトリックという生徒が一つの教科書となっていたのだ。カフカの言葉のように、彼女の知性は、パトリックの斧によって砕かれた。その学び直しの本でもある。
先生と生徒の関係性以上にここで問題とされているのは、子供と両親の関係性なのである。パトリックは言葉という武器を使うことが出来なかった。それは暴力社会の中で委ね
ることが出来る一つの武器(力の方がいいのか?)に成り得ると彼女は考えたのである。それは黒人公民権運動の一つの力だと信じられたからだ。彼女はそれをボルドウィンの本から学んだ。
ただ彼女は頭で理解していても心の中では黒人社会のことは理解出来なかった。その頭の中(理性)を開いてくれたのがパトリックであったし、彼と共に学ぶことでアメリカ社会の閉塞性に斧で打ち破りたいと思ったのだ。それはパトリックとの共同作業によってである。それは黒人差別だけではなく、近年アメリカで起きているアジア人差別の問題もあるのだと思う。
何よりもこの本を読んでいて楽しいのは読書の世界が広がることである。例えば「ナルニア国物語」は読んだこともなかったし興味もなかったのだが、映画を観た。そのキリスト教世界がすべていいとは思わないが感動したのも事実だ。
そして彼女の最初の授業で教える「I am~」の定形詩を使って生徒自身の「I am~」の作文を書かせること。これはぜひやってみたいと思った。
そして、パトリックとの個人授業では毎日詩の暗唱をパトリックだけではなく、先生も生徒とやるのだ。そうした練習が表現技術を磨いていく。その言葉の練習はもしかしたら、身体的な赤ん坊に授乳する母親のようなのかもしれないと思ったのは『内蔵とこころ』を読んで、母親の授乳は最初から上手くいくのではなく、赤ん坊との共同作業的に乳の吸い方と出し方を習うのだという。それをつかさどるのが赤ん坊の舌だという話。まだ手が自由に使えない赤ん坊は舌を手に変えて世界を把握するのだという。
二人の詩の暗唱する描写を読んで、ふとそんなことを連想した。そしてその練習の最初の詩が松尾芭蕉の俳句なのだ。俳句を三行詩と見立ててその順番を入れ替えると世界ががらっと変わってしまう。そして芭蕉の俳句の世界の安定した姿を最初に学ぶのだ。そこからイギリス詩(英語が母語だから)の表現を学んで、最終的にはパトリックへ娘と被害者の母へ手紙を書かせるのだ。加害者家族との和解は法律の元で理解できない条文通りに刑を全うすることではないのだ。ただそれもパトリックの再出発という過程の中での物語に過ぎない。そして、物語はパトリックの中で閉じられたものでもないのである。