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名月は遅れた頃にやってくる

十五夜である。正確には昨日の月なんで十六夜でもないのだが、なんとなく満月なのである。そもそも十五夜が十五日ではなくて十七日だったのは何故なんだろう?新暦と旧暦のズレだという。なんだそういうことか。だったら十七夜でもいいのにと思う。そうすれば昨日の月は十八夜でいいのかもしれない。まあ一番妥当なのは、中秋の名月で、昨日はほぼ名月でいいのではないか?今日の一句。

名月は遅れた頃にやってくる 宿仮

それぞれの人に名月はあるということだ。

昨日は午後から映画を見に行った。午前中残暑忍び寄る部屋で頑張っていたのだけど、昼過ぎに我慢できなくなって、『夜の外側』という映画を観たのだが、もともとTVシリーズだったようで、映画館で見ると前後編で二本分の料金になるのである。一本分は正規の料金(会員料金で1100円なのだが)で二本目はポイント観賞で思ったのだが特別料金でポイントが使えないということだった。一本だけ観てもしょうがないので二本続けてみたが、最近こういう料金システムが多いのか。特別料金の映画が多すぎる。

そうだその前に『ジョーカー』を見ようと思ったのだが、これも特別料金で止めたのだが、これは旧作のIMAXだった。何ゆえそんなもんで観なければならないのかと思って止めたのだが新作だと思っていたのが旧作なんで観なくて良かったと思うのである。なんか映画館もいろいろない知恵を絞って頑張っているのかな。今週は観たい映画も少ないような。

図書館に行けば良かったのだが、読書がなかなか出来ない。読書の秋は涼しくなったから出来るもので、こう残暑だと出来ないのだった。だいたい一日一冊のペースだと思っているのだが(無職で暇人だから)、最近は読書が出来ないでいた。それでも映画の待ち時間(早めに行って読書時間にしている)で少し読んだのが、川野里子『七十年の孤独: 戦後短歌からの問い』で短歌史と文体論のセットで面白かった。

文語体と口語体で分けられ、口語体は初心者がまだ短歌を知らないときにやるもので、慣れてくると文語体に移動していくという。それは文語体や歴史的仮名遣いが日常ではない世界なので、異界への導入口というようなことだった。文語の方が自分の感情に距離を置いて、普段は文語なんて使ってないので、客観的に抒情世界に入っていく方法だという。

文語はそもそも作られた言語で斎藤茂吉や釈迢空の文語があるだけで、それを万葉調(万葉もどき)に創作しているということなんだそうだ。だから文語に特別にルールがあるわけでもなく、表現ならば擬態という演技性を含んでいるのあり、それは短歌の調べと大いに関係してくるので文法的正しさよりも作家の個性だということだった。

それは紫式部の文体が古文なのに、悪文というのは文法的に正しくなかからであるわけなのだが、それが表現として『源氏物語』になっていくとそれを模倣して観賞するようになっていくのだ。だから『源氏物語』が古文としてではなく、現在も読みつがれているのは何も古典だからと言うのではなく、現在読んでも面白いからで(人間関係とかあるあるで)、それぞれの解釈で時代や国を超えて読まれているということはそういうことなのである。

俳句では文語こそが前衛という意見もあるようなのだ。まったくの口語というのは、意識するとかなり難しく、今の歌人は口語、文語、それぞれ状況によって使い分けているのは表現としていろいろと実作しているようなのである。

例えば東日本大震災の歌で文語体のほうが重く感じるのは、それが日常ではないからなのであった。電源喪失体験というか、すべての電源が失われてネットも使えないときに、その絶望感をどう伝えるかということなのだと川野里子は書いている。それは「私」というものをどう観ているのかということで、距離感をもつときに文語体になるということだった。今日の一首。

ただの月
十五夜になり 十六夜 いざよい
お前の月は夜のいい月


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