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秋明菊有季定型菊でなし
昨日は引きこもって俳句づくりをしていたがちっとも浮かんで来なかった。これも去年の写真で秋明菊と出た。題詠は苦手なのか本来は題詠は和歌のもので、そこから連句や俳諧になって、発句が成り立ったということである。発句は芭蕉が写生をし、題詠ではなく見たままを詠むということなんだが発句のあり方、正岡子規が写生と言ったのもそういうことだった。その時に季語があれば連想が広がるというころで季語的なものを見つけて詠むということなのかもしれない。
それでも昨今の句会は題詠形式である。それで頭を悩ますのだが昨日は「シン・俳句レッスン」でなかなか読み進められない夏石番矢編集『俳句百年の問い』を読んでいて袋小路にハマってしまった。俳句を有季定型にするか、それとも無季にするか、それぞれの主張を読んでなるほどと思うものの納得が行かないのだった。それは句会では有季定型の人が多く、また歳時記に載っているような死語に近い今では俳句でしか使われないコトバを使う方が点を取りやすいような気がする。本末転倒なのだが、そうなっているのは句会が点取ゲームのようだからなのだ。そこでは題詠的な要素もあり、しかし我が俳句道としてはそんなことでいいのかと思うところもあるのである。
それで俳句論の本を読み漁るのだが、どっちもどっちだと思うのである。まず新興俳句の篠原鳳作の論では現代俳句を詠むなら都市化は無視できない情勢で有季定型が求めているのは未だに郷愁や伝統であって、それらの俳句は新しさもなく皆同じような句で面白みが感じられないという。その意見はもっともだと思うのだがそこから無季俳句で機械文明を詠んでもなと思うのである。そこを肯定できない自分もいて、季語を使うのは日本の四季の循環としていいのではないか、俳句として創作しやすいというのは確かにある。
それは題詠的なもので、そこに日本の培われてきた民族の伝統があると言われるとちょっと待てと思ってしまうのだ。それは結局、日本人が日本民族の抒情に従われているのではないか?それは外部からの影響を拒否するのではないかと思えても来るのだ。もともと日本の詩歌は中国の文化から影響を受けたことも多く、仏教も外来思想だった。そこに神道を重ね合わせて中央集権化していくのだがアニミズムとしての神道はいいのだが、他神を排除していく天皇中心の神道は違うと思うのであった。
そこの兼ね合いなのか?伝統にがんじがらめになるのは天皇中心の神道へ行き当たる。しかれども日本の四季は伝統よりも自然のアニミズム的なものにも思える。その中に中国から伝わった風習もあるのだが、月見というのもそういう感じを受けるが日本独自の月見もあったりして、萩の月はどっちだというようにどうでもいいことで悩んでいるようなのだ。
それも桑原武夫の第二芸術論の影響が大きいと思うのだが、それを見過ごせないのは、日本の俳人が結局新興俳句運動を締め出して国家権力の翼賛体制に加担して行ったという歴史があるからである。そのことを平然と受け入れる内輪性では俳句の未来はないとも思う。言葉も俳句も流動的に変化していくものなら現代性は無視できないことで、それでも詩である根本は外したくない。それは言霊性だと思うのだ。
現代俳句では金子兜太の影響が強いのだが、彼の「造形俳句」を正しく理解しているのか、そこから社会性俳句なるものが生まれてくるのだが、草田男との論争があり、そこで留まってしまっている。
草田男の精神性が嫌いというか、伝統論者はかならず精神論を持ち込んでくるのであった。そういうものではなく技術論として誰もが表現できるのがいいのであって精神性の問題で優劣を付けるのは違うと思ってしまうが実際に選句をするとそのような部分もあるのかもしれない。それは美意識が個人によるものでなくて社会性の観念だからだろうか?その美意識が覆されたのがアメリカとの敗戦であり、当時はアメリカの民主主義が一番と教育されてきたのだ。しかし、それが揺らぐ事件があるのを知ってしまってアメリカの民主主義はいいとして、経済至上主義は植民地化をするという構造があることで確かにアジアや日本は属国であるというのは今の日本の社会状況をみればアメリカの言いなりで何一つ日本独自で進められないと思うのだ。だからと言ってガチガチのナショナリストになるわけじゃない。その塩梅なのかもしれない。
『現代詩手帖』先月号がシュルレアリスム特集と白石かずこ特集でジャズの即興とメイク・ラブとポエトリー・リーディングの詩人が白石かずこなのだが何故か避けてきたのは、ケバいというのもあるが声のデカさかな。そういう人物が苦手なんだと思う。またスター性も纏っているからアンチなのかもしれなかった。ジャズにしてもメイク・ラブとは違うんだよなと思いながらマックス・ローチと友達だったのかと変な所で感心してしまう。コルトレーンに捧げた詩があるというがYouTubeにあった。やっぱこれは評価出来ないよな。時代性もあるかもしれない。
こっちのほうだとまだいいような気がする。
このぐらいの年になるとおもしろいおばさんだなと思う。巻物が風で読めない姿とか。「シン・現代詩レッスン」は白石かずこをやるべきだな。
そういう脇道にそれながら昨日やったことは短冊作りまで。短冊を作りながら思ったのは縦書き俳句と横書き俳句の違いについて。今回出そうと思う句に。
雛菊や有季定型恋心 宿仮
があるのだが、元は横書きで作って有季定型はなんかAIのようで虚しいと思ったのだ。それで一句。
横書きの有季定型AI句 宿仮
を作った。並べると納得すると思うのだが、すでにAI句と言ってもその違いが見分けられるのか?そんな自信のなさだった。確固たる自己がなさすぎなのか?今日のもう一句。
秋明菊や有季定型菊でなし 宿仮
秋明菊や有季定型人でなし 宿仮
こっちの方が面白いか?これは短歌の素材か?今日の一首。
秋明菊は有季定型菊でなしそういうお前は人でなしか やどかり