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壊す人黒船で来て後悔す

横浜みなとみらいに停泊している「日本丸」。沈没船から話が始まっているのか。いつも目にしていながら何も知らなかった。

これは面白い。毎日が撃沈の人が浮上するための船がこの日記だから。

昨日も引きこもり人だった。大江健三郎『同時代ゲーム』を読んでいる。やはり難解といえば難解だった。その難解さの登場人物で言えば壊す人。それがテーマともなっているのだが破壊神というべきか?外部からやってきた人の意味で在の先住民を破壊した人なのだが、善悪を超えて伝承として語られることで人々に反省を促して良き世界を作っていく。

それは弁証法的というべきか。今やっている「100分de名著のヘーゲル『精神現象学』」に近いのかもしれない。それは神=魂の問題ではあるのだが、人の精神の中に現れる神=魂だと思うのだ。

まず巫女である妹の体内に宿っている命だということ。それは外部である壊す人によって懐妊させられ、また壊す人を再生産する運命にあるのだが、そのことは伝承者による僕の物語を読んで弁証法的学んでいく。その合理性が神主である父によって授けられた運命であったのだ。

その冬眠および再生という言葉を導きだす他者(宇宙人)として「ダライ盤」とよばれた旋盤工がいた。彼が村にやってきて、工業化をして恵みをもたらしたのだが、それは破壊をも呼び込んだ。これは資本主義のイメージだろうか?そんな彼が癌に犯されて自らを冬眠させ未来に送って治療するSF的妄想にかられる(『燃あがる緑の木』の元・外交官の「総領事」に繋がる)。それで作ったのがカプセルの冬眠機械であり宇宙船と言ってもいい鞘なのだが、それに語り手である僕と妹が乗り込み未来に送り出されることを希求する。

当時の映画で言えば『エイリアン』のイメージか。大江健三郎のSFとしては『治療塔』に繋がるイメージか?

この小説も失敗作だったがその失敗がイェーツの詩を通して『燃あがる緑の木』に繋がったのかもしれない。

話を『同時代ゲーム』に戻すとメキシコの先住民の破壊によって建てられたキリスト教が新たな姿となって語られてキリストになり福音をもたらす。それは外部の人マルカム・ラウリー『火山の下』での作家にはやりきれないことであったのだが酒に溺れながらその地の妻を愛し自滅していく(この物語の作家が外交官であった総領事)。それを後世に文学として残した。それはフォークナーの文学にも言えるがヨーロッパという先住民にとっては悪魔という神がやってきた後に語られる神話によってもたらせた福音と考えていいのではないか?

それが今の日本にあるとするならば平和憲法なのである。それは壊す人(アメリカ)によってもたらされた憲法だが今まで日本の平和を維持してきた(間接的な要因はあるだろうが)。大江健三郎が戦後の人として、例えば夏目漱石が明治の人というより近代化の人という矛盾の中で語り続けた文学。それは『こころ』がけっして明治天皇のために殉死したというのではなく明治の近代化の中で使命を終えた人の伝承として、『こころ』の語り手が伝承者としていたのではないか?という尾崎真理子『大江健三郎の「義」』で延べられたことでもあった。つまり『こころ』の先生の自死よりもそれを語っている私の重要性である。

そして、もしかしたらこの平和憲法も終焉も迎えているのかもしれない。その時に明治の精神と共に亡くなった人が大江健三郎なのではないか?けっして昭和の精神というのではなく、戦後の精神という大江健三郎の平和憲法に擁護だったと尾崎真理子はいう。

このへんの精神構造は捻れているからなかなか難しのだが、それが『同時代ゲーム』なのではないか?大江健三郎の「ゲーム理論」というより「ゲーム文学」か?

アニー・エルノー『嫉妬/ 事件』読み始め。嫉妬は大学教授であるインテリ女性が恋の嫉妬に燃える話。通俗的な話なのだが、それを文学的に語ることで人間の本質について語ろうとしているのかもしれない。

今日の一句。川柳ですね。

壊す人黒船で来て後悔す

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