『トリスタンとイズー』との比較論
『とりかへばや、男と女』河合隼雄 (新潮文庫)
西欧のキリスト教社会の二分法の論理からユングはアニマとアニムスという無意識の自己を発見したが、ユングもあまりにも二分法に捕らわれていて中間領域を見いだせなかった。河合隼雄はその中間領域として両性具有などの物語や日本の古典の世界から西欧社会とは違ったユング心理学のシステム論を組み立てる。その大きな解釈とされるのが『とりかへばや物語』の男女の入れ替え物語であった。それと対比される『トリスタンとイズー』はロマンチック・ラブの集大成の物語構造を持ち、そこにキリスト教社会(世界)の構図もあるとする。
ユングの「アニマ」「アニマス」を踏まえながらユングはキリスト教的な二分法(ヨーロッパの論理的思考)にとらわれており、女性の中に「アニマ」が現れる症状を解決できなかった。それは完全なる女性性や男性性があるわけではなく中間領域があることを「とりかへば物語」を解釈することで見出していく。日本は多神教であり自然を人間の対立とはしない(自然と書いて「じねん」と読む場合はそこに自然と一体化してゆくような文化がある)。
ヨーロッパの家父長的思考に育った女性も内面はペニスを持った女のように振る舞う場合があり、『とりかへばや物語』にはそれが見いだせるのではないのか?また雌雄同体である両性具有の物語も見いだせる。
それらの深層心理を物語から探っていくので、テキストが多く錯綜したところもあるが、要するに日本の古典とヨーロッパの古典の違い。例えば「ロマンチック・ラブ」の最高峰とされる『トリスタンとイズー』の物語の中に愛の死という形を見出す。ロマン主義の近代文学には、この「ロマンチック・ラブ」の形が多い。それは、慣習から逃れてゆく愛の結末は死によって清算されるキリスト教的概念がある(社会では受け入れがたい)。フロイトの「エロスとタナトス」の関係はそういうものかもしれない。
日本の古典の場合は、近松の「道行」にしても心中が浄土への展開というものがある。それはもともと男性中心主義の仏教は親鸞によって男性神の変転である女性神が世俗の宗教として受け入れられてきた。阿弥陀信仰とか観音信仰か?
『とりかへば物語』でも姉君が道行で男を捨てることは尼になることで、女性性を取り戻す。その結果として男性から女性へと転身していく物語だった。その反対として弟の転身が先にあるが、それまで受け身の性格だったのが男に転身した途端に男性性があらわになり、様々な女性と関係を持つ。
それと女性性に関連することで妊娠という身体性もあるように思える。姉君が役割として男で居られなくなったのはセックスよりも妊娠ということが大きかった。作品を生み出すという行為もそうした入れ替わりの内面性があるのものだ(例えばフロベールが「マダム・ボヴァリー」は私だと言ったように)。
ただアニマ・アニムスの原型論でも内面の理想像を相手の異性に求める場合は、愛が一瞬に燃え上がるがその時期がすぎて現実が見え始めると愛が一瞬に覚めてしまうことは経験する。そのような内面(内的こころ)によって他者のイメージを自己のイメージにしてしまうケースもある。そうした行き違いが過度に女性礼賛の文学に成る一方で女性の死によって男が生き延びるという文学になるパターンの文学は多い。
『とりかへばや物語』のように男女とも生き延びて幸福を手に入れる(姉君の転身は本当に幸福なのかは今の時代の観点からすれば疑問だが)稀有な作品だという。シェークスピア『一二夜』も「男女入れ替え」物語で悲劇から喜劇の結婚へのパターン。
『トリスタンとイズー』と『とりかへはや物語』の比較で、トリスタンは運命に対して意志の力を示して対峙するのに対して『とりかはや物語』の男たちは運命をそのまま受け入れて深くは詮索することはない。それは入れ替えが「天狗の仕業」という不条理を論理的にではなく自然と受け入れていく。運命と意志の違いは日本の近代化によって例えば夏目漱石が共同体と個人主義の間で煩悶しなければならなかったことを想起する。
また『とりかへばや』物語で変転する場所が京都ではなく吉野という山である点も重要視する。京都(憂き世)に対して吉野(隠者の里)は、非日常の場所である。
そして『とりかへばや』で大きなテーマとなっているのが夢ということだという。夢による解釈によって登場人物が救われる。
参考書籍
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