
シン・現代詩レッスン97
黒田三郎「賭け」
『黒田三郎詩集』(現代詩文庫)ではなく大岡信『現代詩の鑑賞101』からで、アンソロジーなので一人の詩人ではなく様々な詩人が掲載されているのだ。その中の解説もなかなか面白い。この詩は黒田三郎が結婚で妻を得たときの詩なのである。それは恋愛詩と言われるものだがいまとは随分と違うのだ。まず現代ではこういう詩を書けないだろうと思うのだ。
賭け
五百万円の持参金付きの女房をもらったとて
貧乏人の僕がどうなるものか
ピアノを買ってお酒を飲んで
カーテンの陰で接吻して
それだけのことではないか
この出だしだけでふざけるなと思ってしまう。五百万円の持参金がどのぐらいかわからないがピアノが買え、飲んだくれでいられるのだ。これは恋というより甘えそのものでないか?何がカーテンの陰で接吻してだ!こんな詩を読まされて「それだけのこと」と開き直る身分になってみたいものである。
『黒田三郎詩集』のあとがきで酔っ払った黒田三郎を奥さんが白い車で向かへにくるそうなんである。いい身分だよな。それを救急車とか言っているんだから。
それでこの親父は美意識がどうのと説教するのだった。こういう親父は確かによくいると思う。彼らはノスタルジーに憑かれてそれをもう一度と思っているのだ。
エッセイでは谷川俊太郎を否定するのだが、それは流行歌じみた詩を書いたりしてマスメディアに魂を売っているということなのだが、流行歌でないにしても自分の詩だって歌われていて、それが本人がどう思っているのかわからないが、少なくとも谷川俊太郎を否定するには駄目すぎるだろう(歌われることをはっきり拒否したわけはないのだから)。
このへんの態度がどうも駄目だった。それで逃避したりしているのだ。まあ、そういう詩を書いたり発言をしていたら雲隠れもしたくなると思う。その弱さだけは共感できるかもしれない。
ああ
そのとき
この世がしんとしずかになったのだった
その白いビルディングの二階で
僕は見たのである
馬鹿さ加減が
丁度僕と同じ位で
貧乏でお天気屋で
強情で
胸のボタンにはヤコブセンのバラ
ふたつの眼には不信心な悲しみ
葡萄の種を吐き散らす
唇の両側に深いえくぼ
僕はみたのである
ひとりの少女を
この少女が持参金付きの娘なのか?完全にお惚気じゃないか。お前ら羨ましいだろうというような。
一世一代の勝負をするために
僕はそこで何を賭けなければよかったのか
ポケットをひっくりかえし
持参金付きの縁談や
詩人の月桂樹や未払の勘定書
ちぎれたボダン
ありとあらゆる
つまみ出して
さて
財布をさかさにふったって
賭けるものが何もないのである
僕は破滅を賭けた
僕の破滅を
この世がしんとしずまりかえっているなかで
僕は初心な賭博者のように
閉じていた眼をみひらいたのである
もうダメ親父の自慢話しかないな。何が破滅なんだ。最初から賞賛があったんだろうが。こういう詩が持て囃された時代があった。今ではこういう詩は読まれんだろう。夢を与えるにしても、出来過ぎ君だった(ロマンチシズム)。こんなことはまず私らには起きない。
賭け
詩の良さは酩酊することではない
そこに批評性があるかどうかだ
その批評性は自分に返ってくるのである
否定する詩人は否定される
それがわかって酩酊していられるのか
詩で勝負するには賭博性など必要ないのである
相手は絶えず自分自身だ
世間を愚痴ろうが
言葉は自分に返ってくる
それでも毎日言葉を紡ぐのが詩人なんだろう