「悲劇」が生み出したものについて考える
『詩学』アリストテレス, 三浦洋 (翻訳) (光文社古典新訳文庫)
アリストテレス『詩学』を読んでいないがその批評とされるニーチェ『悲劇の誕生』やブレヒト「異化作用」は知られている逆転現象がある。タイトルが「詩学」となっているので、それも哲学者の本だから敬遠してしまうが、光文社古典新訳文庫『オイディプス王』の解説で河合祥一郎が取り上げていたので、読みたくなった。悲劇の創作の本だと知った。
アリストテレスの時代は詩と演劇の境もなく、哲学ですらプラトンの対話編のように、戯曲的で書かれている。戯曲という韻文。ここでも叙事詩のホメロスについては、悲劇的な演劇効果について書かれている。
ソフォクレス『オイディプス王』(フロイト「エディプス・コンプレックス」の元になったギリシア悲劇)も悲劇作品の代表で取り上げられている。解説で第一章~第五章までは、『詩学』の分類と歴史的背景の論考なので、ここは飛ばしていいという。哲学的なことが好きな方は面白いかもしれないけど、こういうのは苦手だった。実践あるのみ。
プラトン『国家』で詩人追放論でホメロスの叙事詩を悲劇の先行作品と見てそれを模倣することで感情を呼び覚まし、理知的な部分が弱まり(ベンヤミンと同じような理由だ)、激情と欲望が勝っていく。
魂の三分説(だいたいアリストテレスの分析は三分説で、良い、中間、悪いというような)「理知的部分」「気概(激情)の部分」「欲望的な部分」。悲劇は、感情や欲望を刺激する作品で「知性に害毒を与える」。
模倣の低劣性。プラトンの「イデア」論で個々の事物の真実性を損なう見せかけの像にすぎない(師匠の「イデア」を否定するのがアリストテレスなのだ。それは精神論を否定する理性論のような)。絵画はものとしての役割(真実)を持たない。「絵に描いた餅」。模倣者の低劣性と作品の有害性。魂の非理知の部分に関わる。神々の讃歌と優れた人間の頌歌だけは理想の国家に貢献する。
第六章悲劇の本質の定義
アリストテレス『詩学』について、わかりやすく語られている。
アリストテレス『詩学』の批評は、ニーチェ『悲劇の誕生』やブレヒト「異化作用」があり、「悲劇」についてあまり思考せずに逆の方面からの考察を当たり前のように享受してきた。しかし、現代はナショナリズムを生み出す要因として、「悲劇」をもう一度考えなければならないのではないか?
デカルトは主体的な人間の「感情移入」によって悲劇の快感を得るとした。しかし、それは非日常的ドラマとして、実際の当事者との実感とは違うものである。「悲劇」は日常性を映し出さない。「悲劇」との距離があって始めて快感を得ることが出来る。参考:カント「判断力批判」。
アリストテレスは悲劇をカタルシス(浄化)であると捉え、毒素(邪悪さ)を排出するものとして、プラトンの『国家論』魂の非理知の部分、「気概(激情)の部分」「欲望的な部分」を増大させる(魂の三分説)としたのを引き継ぎながら「悲劇」を擁護した。この邪悪とされるのが、キリスト教(太陽神=アポロン)からみたディオニソスであるとしたのがニーチェ『悲劇の誕生』。
欲望を害悪とするのは、善悪の判断は一神教の都合のいいものであり、欲望=自然と考えるならば排除するものではない。むしろ主体性を揺さぶる他者としての異化作用があるのだと考えるのがブレヒトの演劇論。
テオ・アンゲロプロスのような映画監督は、カタルシスを取り入れて民族悲劇の物語を映画にした。民族悲劇を語る映画が与えてきたもの。アリストテレスは悲劇の効用として、浄化と人間の模倣性を上げた。
アリストテレスは喜劇を考察してこなかった(実際はその資料があるともないとも)。喜劇の必要性。寓話性なのか?とりあえず、今後の課題。
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