見出し画像

わからず屋はクレーマーではない。

『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座 』鷲田清一 (ちくま新書 – 2010)

ひとはなぜ、自由が拡大したのに不自由を感じ、豊かな社会になってかえって貧しさを感じるのか。「自由」「責任」の本質は何か。哲学の発想から常識とは違う角度からものを見る方法を考える。人々と対話し思索を深める“臨床哲学”の立場から、複雑化した社会のなかで、自らの言葉で考え、生き抜いていく力をサポートする。

鷲田さんの本はぐっとくるのが多い。年取ってもわからないものはわからない。年取ったからすべてが明らかになるわけでもないんだよな。そのへんは精神安定剤みたいな本だ。

 臨床哲学と書くと難しそうだが、ようは心のエッセイだった。例えば時間は川の流れに喩えられが、橋に立って流れる先を見るのは若い時で、流れ去っていく後ろ向きなのが年取ってからというような時間の概念。それがさらに年取ると一枚の絵のように過去も現在も一緒に現れてくるのだという。そうだったのかと納得してしまう。早くその絵を見たいような見たくないような。

将来に希望がない若者は過去を振り返るようになる。大学生に自分が大人だと思うかと質問するとまだ子供だと答え、高校生にまだ子供なのかと質問するともう子供ではないという。二十歳の子がすでにオバンと言われてしまう世界(もっとも昔は十代の出産が当たり前だったから確かにオバンかもしれない)。

未来について、なんでも予測可能でその能力だけが有能とされる社会で、そこから零れ落ちてしまった者はただ傍観者となるだけだ。「わかる」という前提で動き出すと「わからない」と動けなくなって指示を待つだけになる。危機察知能力は、先が見えないときに発揮するものだという。むしろそれを楽しむことが出来ない社会なのだ(ミスを寛容されることがなくマニュアル通りに完璧にこなすことを要求される)。

他人任せになって自ら考えて行動できない現代人。それは日本が高齢化社会になっていてある部分仕方ないことなのかもしれない(頭は動くけど体が動かない)。だから他人任せのクレーマーが増える。人が行うことを当然のサービスだと勘違いしてしまう。ますますマニュアル化人間が増えロボットに代用されていく(駅の改札とか切符売り場とか昔は人が行っていたものだ。最近はレジも自動化されていく)。ますます不自由になった老人は文句のはけ口を探す。

管理社会になってあまりにも完璧に管理された社会だと考えることを放棄してしまう。自ら動くことが出来ない。責任を負えないのだ。上から下まで無責任社会。未来を生きることだけを考えすぎて現在を生きられない人間。ますます管理化されていく社会。病院から始まって病院で終わる人生は楽しいのだろうか?

やたら言葉が外国語や専門用語化していき、それに踊らされる人間。言葉を聞きすぎるのか、言葉は命令じゃないということを理解するべきだ。AIは言葉に従うだけだが人間は他者と考えていく。



この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?