シン・短歌レッスン162
松下竜一『豆腐屋の四季』
松下竜一『豆腐屋の四季』から。
ここまで近藤芳美、五島美代子の選評を見たが、今度は宮柊二の選評だった。この選評を詠むと一首提出ではなく五首連作だったことがわかる。すでに初稿から2年が過ぎていたのだ。その第1首目。
ファザコンかなと思うがこのエッセイ自体が亡き母に捧げるとある。そして母の夢を見るのだ。
母が豆腐を造っている夢を見ての一首。河口は三途の川的なことだろうか?
父のことを短歌にしてそれを投稿する。父もそれを読んでいたという。この投稿が出てから皿廻しをしなくなったという。庶民の喜怒哀楽の短歌は選者からは好評を持って迎えられるがモデル問題も含んでいた。
父を詠んで好評される短歌。「老い父」と書きすぎるが本人は「呆け老人」だとは思ってないようだが、読み手は「呆け老人」と解釈したようだった。
短歌を読む限りだと父は豆腐屋を引退したみたいだと思わされるが、まだ現役(六十四歳)で豆腐造りをしていたという。そこに虚構性のようなものが垣間見られたような感じなのか?
彼には三人の弟がいたが、高校を中退して東京に働きに行っていた。しかしたいして金もかせげずに仕送りをしてもらう日々。そんなところに東京での就職の厳しさに死刑囚の永山則夫を重ねていたのかもしれない。送金催促の速達が来るのだが、その速達代も借りたという話。
すぐ下の弟は東京生活が出来すに実家で装飾屋になった。しかし東京生活で身につけた無頼気取りで真面目に仕事しようとせずに彼がその仕事を引き受ける。豆腐屋と装飾屋の二足の草鞋。クリスマスの時にバーの飾り付けをしながらフランク永井「君恋し」を聞いていたという。二番目の弟が東京で結婚したが誰も出席出来なかったという。
弟らの東京生活の厳しさと兄弟愛というような章。やんちゃな弟たちに嫌気がさして親・兄弟を捨て家出したとも。すぐに帰った模様。
そうした兄弟間の繋がりは家族新聞(ふるさと通信)を出すほどにまでなり、兄弟愛が強化されていった。
坂口弘
『坂口弘 歌稿』から。過激派の死刑囚大道寺将司は俳句を詠んだのだが、赤軍派の死刑首坂口弘は短歌を詠んでいた。その違いはなんだろうと興味を持った。
最初の一首からリアルさを感じるな。「リンチ」という生々しい言葉だろうか?
機動隊突入かと思ったら自分たちがあさま山荘に押し入った様子なのか。「美貌の婦人茫然」がドラマのようだ。
この状況は知らないのでリアリティがある感じだ。赤軍派の中でもいろいろ揉めていたのかと。
このへんも短歌ならではのリアルさか。T君はリンチで死んでいるんだよな。それを彼等はどんな気持ちで聞いていたのか?
あさま山荘内の状況がリアルに詠まれているな。
満足感があったのだろうか?「なかりき」とあるから心境の変化があったのかもしれない。
「『短歌』の裏方たち」馬場あき子
『角川 短歌 2024年5月号』から馬場あき子「『短歌』の裏方たち」。歌壇のレジェンドとも言える馬場あき子が振り返る短歌史で、中井英夫が『短歌研究』から『角川 短歌』の編集長になった時期で、この頃が前衛短歌の全盛期であり、批評も盛んだった。当時は前世代の近藤芳美や宮柊二のリアリズム短歌を否定して塚本・岡井の前衛短歌の方法論が叫ばれていた。それは中井英夫がなんとしても世代交代させなくちゃ、このままでは短歌も衰退していくという思いが新人歌人を起用して、それがブームになっていく。
馬場あき子は批評が書けるので、そっちでは重宝されたが歌人としてはいまいち登用されずに新風十人(期待の詩人歌人ということのようだ)の中にはいってなかったという(それが本人は相当ショックであったとか)。それだけの人材がいたのも事実だが、批評よりも実作の方が重く見られていたのかもしれない。いまでも状況は変わらないが、今ではその十人よりも馬場あき子の方がレジェンドとなっているような気がする。
やはり当時はジャーナリズムが前衛短歌という運動を作っていたようで中井英夫の活躍は特筆するべきというようなことだった。『短歌』雑誌に折込で歌集を付録に付けてそれが売れたとか。また短歌以外の書き手を呼んで批評させたりしたという。荒正人の批評とか。
後にそのブームもジャーナリズムが消すことになるのだが。『短歌研究』の前衛短歌狩りとか。
「歌壇」の変容について──山田冨士郎
『現代短歌100人二〇首』から『「歌壇」の変容について──山田冨士郎』について。
大体言われていることは、批評がないということなんだが、俳句、現代詩と見てきて一番批評がなされているのが短歌だと思うようになってきた。ただ短歌批評が一番なされたときは、先程の記事で見たように前衛短歌の時代だったのだ。その頃に比べると全然なされていないように思えるが、注意深く見ているとけっこうなされているのだった。この記事も一つの批評であるから。
問題は二極化なのだと思う。当たり前のような日記を詠む短歌が増えている一方で、難解すぎる短歌も多い。それは大学短歌会のような存在が今はけっこう活発だという。ただ前衛短歌の時代と違うのは、それが表に出てこないで内輪になっているから一部の歌人の難解短歌が存在する。それは読者がいない現代詩の世界と同じだった。現代詩も批評がないわけじゃないのだ。ただそれが表舞台に出てこないで現代詩の雑誌やグループの中でなされているので、ますます現代詩は難解であり一般の詩との距離があるのだと思う。詩を作る人はこのnoteにも数多くいるのに接点が出来ない。難解短歌もそういうことだと思うのだ。
その一方で俵万智から始まった口語調の日記風短歌がある。そういう短歌ははびこっているのは、あまり問題意識もなくただ短歌を詠むことに主点が置かれている教えがはびこっているからだ。これはジャーナリズム的なコマーシャリズムの影響だと思う。そこで短歌が売れるのだ。コピーライティングのように。それは一部の歌人だけなのだが、それを支えているのは歌人になりたい一般ピープルなのだ。俳句の共通点はそこにあるかもしれない。簡単に短歌を作る方法が、「アララギ」の有季定型で写生という方法論を結社で伝えていく。今はそれが市民講座とかになっているのだろう。独りの俳人を生かす収益システムかもしれない。それが徐々に出来なくなっているのはネット人口の増加であろうか?
ネット短歌悪人説がここでも唱えられているのだが、そういうことではないと思う。内輪体質になるのは、ネットだけじゃなく結社システムもそうなのだ。この著者が間違っていると思うのは、穂村弘と枡野浩一を同一線上に置く見方かもしれない。確かに穂村弘は結社主義を解体してジャーナリズムの方へ短歌を広げたのもしれない。しかし、そこには俵万智がいたのである。かれは俵万智のアンチとして、方法論や批評を武器に闘っていた。彼の短歌を批評とは別の面を見るというのは以前も読んだ記事があったがそんなことはないと思う。穂村弘の方法論の批評はそのまま彼の短歌の中に生かされているのだ。例えば穂村弘のドラえもん短歌を枡野浩一と同一視するが、根本的なことが違う。
この短歌の虚構性「夜の嘘つき」がどらえもんであり、どらえもんを対象化して詠んでいるのだ。それは批評と言っていいかもしれない。ちなみに穂村弘の「どらえもん」は正式の「ドラえもん」という表記じゃないことは指摘されることだ。それは一般的なドラえもんよりも穂村弘が「どらえもん」を象徴するというような概念(イメージ)ついて詠まれている。そこが「ドラえもん」短歌との違いだ。枡野浩一が必要とするのは日常性の中で便利パーツとしてのドラえもんのどこでもドア的なイメージの転換だった。それは大衆のイメージ論であり、大衆の欲望でもあるのだ。俵万智が女子大学生として掴みたい幸福感と同じものだった。
「歌壇」についても一概には言えなくなっているのは、一方で大衆欲望的な歌人養成所的なものもあり、もう一方で大学短歌会のような専門的な難解短歌の形態もあるだろう。それは内輪問題を抱えているのはそうなのだが、その反動として大衆化があるのである。
小高賢
『現代短歌100人二〇首』の方が『最初の出発』(現代俳句の戦後の潮流を見た本)よりも知っている歌人が多いのだ。それだけ表に露出しているのだろうが名前も残っているように思える。俳人の無名性はなんだろう。俳句に無名性が必要だからか。まず戦後だと兜太ぐらいしか有名人がいない。現代俳句でもその流派だった。歌人はなんで名前が残るのだろうか?そのことを考えたほうが良いのかもしれない。
小高賢は先日読んだ『私の戦後短歌史』岡井 隆の本のインタビュアーだったり、先の記事の馬場あき子のインタビュアーも彼だった(これは勘違い、彼は十年前に亡くなっていた)。そのことから短歌史の証言を残そうとしているのがわかる。こういう仕事は大切だと思う。
小高賢は「かりん」主催の馬場あき子と編集者として出会い創刊から参加しているという。歌壇の母は馬場あき子なんだろうと思わせる短歌だ。
家父長制に反発もあるようだ。
ポール・ニザンのほうだった。「しろがねの星」がなんのことやら、さっぱりわからん。アニメなのか?
黒木三千代
最近興味がある歌人。岡井隆に師事していたのか。
イラクのクウェート侵攻を自らの身体に重ねて詠った衝撃作なのだが、身体的表現が言葉の発信となっているのだった。
「ほと」という身体を出どころに老いの恋を詠んでいる。
先日『ラスト・エンペラー』を見て、婉容に熱をあげたばかりだった。
春日井建
春日井建は同性愛的な少年短歌だろうか?「葡萄」比喩はなんだろう。よく短歌で使われる。
古代の儀式的な青年の美かな。
放蕩家なのか?死の願望。カプチーノはローマ好きなのか?
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