俳句は挨拶という句会
『俳句という愉しみ―句会の醍醐味』小林恭二
句会用に借りた。伝統俳句の傾向と対策。メンバーは、大木あまり、岸本尚毅、小澤實、藤田湘子、有馬朗人、三橋敏雄、摂津幸彦、岡井隆(歌人)の8人。司会の小林恭二と編集者の川上隆志も選者に加えて楽しむ。
今回歌人の岡井隆(現代短歌の重鎮)をいれたことで、俳句と短歌の違いもわかるように解説していた。伝統俳句の中には基本となるルールがあるのだが、結社に入ってそういうことを学ぶと思うのだが岡井隆はそれを知らない(本とか読んで知っていると思うのだが、ここでは俳句初心者としておく)。そうすると短歌である韻文でも俳句のセオリーに叶ってないと俳句ではないと批評されるのだ。その違いが面白かった。
それは私がいいと思ったのは岡井隆の俳句なのだ。結社に入ったことがないから、そうしたルールが分からないから感性で取る。例えば小澤實は、今では俳句界の重鎮だが、ここでは藤田湘子=小澤實という師弟関係があるのである。そこで二人はある程度は句作の特徴を知っていると思うのだ。例えば、小澤實は難解漢字を使いたがる。通常の読者にはぱっと見て理解できない漢字の熟語だったり季語だったり。
他に有馬朗人と岸本尚毅は東大俳句会からの関係である。新興俳句系では三橋敏雄と攝津幸彦は直接は関係性がないのだが、師匠が桂信子で新興俳句系だった。大木あまりは女性俳人がいないので紅一点に入れたのかな(アイドル的な)。
第一日目は肩慣らし程度で、俳人同士はお互いに知る仲であるから、例えばこの会場に来るときに一緒に来るとか関係性があるのである。それを登場シーンで小林恭二は小説家だから描いているのである。
ベテランと若手(と言ってもすでに俳句界では注目されている者たちで、今ではNHK俳句で講師をする者たちだ)の俳句観賞の違い、さらに歌人と素人(小林恭二は大学俳句会に所属して、その先生が有馬朗人なので俳句理論は得意のものだった。だから彼が司会で解説者役なのだが)というメンバーで俳句観の違いもバランスが取れていて面白い。
例えば雪女郎(雪女の別の言い方)が売春商売をするという俳句は、現代の男では作れないのだ。それは大木あまりのメルヘン的な俳句なのだが、そこをどう批評するか?「雪女郎」と言い方が古いとか、「女中」という言葉も今では差別的だという意見が出てくる。そういう言葉に敏感な者たちだが、大木あまりは、そのへんは感情のままに作っている。選評も猫が好きだから入れたとか。そういう感性だ。
「幕間 御岳炉話」は一日目の句会後の飲み会みたいなもので、その中で俳句史について語られている。そこで新興俳句の三橋敏雄の戦時の弾圧と発表する場がなかったことなど苦労話が語られる。それだけでも彼の参加は有意義だったのだ。ここは新書の中では幕間の俳句史解説ということだろうか?
二日目はルールの変更があり、逆選という駄目だと思う俳句を入れるシステムを導入する。この逆選は俳句のルールから逸れているので、伝統俳句系よりも新興俳句の人が受けやすい。案の定三橋敏雄が圧倒的に逆選を受けてブービーだった。あとベテラン勢は新鮮さがないという感じでベテランがお互いに逆選を選びがちなのか。こういう句会はお互いに手の内がわかってないと出来ないと思う。だから小林恭二がある程度句会に慣れてくると作者が読めるようになると言う。
そうなんだ、ここに句会の内輪性があると思うのだがこれはゲームなんだ。文学表現の厳しさを争う場ではないのである。NHK俳句でも高野ムツオの句会が面白いのはアイドルのフォローが見え見えだったり、彼の俳句の解説が俳句のルールに則り的確だからだ。だからそういう師匠が一人いての句会は俳句初心者の経験の場になるということだ。
その句会で上手い俳人として岸本尚毅がいる。彼の句は飄々として上手いと感じさせるテクニックがあるのだった。また挨拶句が得意だというのも彼の俳句のポイントだった。俳句は挨拶だ(人じゃなくても、宿泊所であったりその土地であったり)というのがよくわかる句会だった。