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小学生にも人気の俳句先生
坪内稔典『坪内稔典の俳句の授業』
言葉の世界では何でも起こる。たんぽぽだって火事になる!まずは、スーパー俳人ネンテン先生と子どもたちの、俳句をめぐる丁々発止のやりとりから楽しんでください。
第一章 俳句の授業
小学生に俳句を教える授業が面白い。花の前に立たせて人物を詠む。例えば菊の花とY君とか。菊の花が季語だとして、Y君とは直接は関係ないが、その間に関係性をいれることで俳句が出来る。例えば菊の花おちょこちょいのY君とか。これは俳句になってないけど、それでクラスの中でどの俳句がいいか討論する。
取り合わせをそのように教える。小学生にもわかりやすい俳句の授業。こんな句会だったら参加してみたい。その中で傑作が出来る。
菊の花野良猫二匹○○○○○
○○○○○に入る言葉を学校の先生に考えてもらう。「戯れる」とか「屋根の上」とか。小学生の女の子は「うんこした」。その発想は大人には出て来ない。そして小学生の討論では、このうんこは臭くないと思うという発言。菊の花の側でしているのだから。その発想も素晴らしい。
明治に正岡子規は俳諧から俳句にするのに写生して感動を折込み、自我を発露せよと言ったのだが、稔典先生は感動を読み込むには俳句の17文字では難しい。だから取り合わせでフィクションの世界を楽しむ。そこに最初の季語なら季語を添えて服の組み合わせのように自由に楽しむ。そのときにセンスが出てくる。それは自己主張が強い人が必ずしもいいわけでもない。むしろ自己主張が強いと面倒くさいという。
俳句の授業で作ることよりも読みの解釈の方に採点を付ける。それは人気の句というのは誰もが見て当たり前に良いのだが、中には少数に支持されながら、個性的な俳句がある。
その俳句を作者通りに読むことは不可能だが、作者の思わなかったところに気づかせてくれる。それが句会での場での批評となり、良句が出来る瞬間だ。人に読まれることによって、印象的な俳句になる。
これは目から鱗でした。それまで自分の俳句が自分の思う通りに解釈されないのが不満だった。それは明治に入って来た自我のあらわれだった。桑原武夫の第二芸術論もそういうことだが、俳句は第二芸術論でもいいと言う。だれでもサックと作れて違う世界に連れ出してくれる。そういうことだ。
第二章 俳句の魅力
近代文学は「私」という自我を獲得するために必死になっていた。それは西欧の近代主義の人間は人格を持つという個人主義に根付くものであり、俳句や短歌は「私」というものを抹消してしまう。桑原武夫は、その欠点を「第二芸術論」として論じた。
例えばAI俳句の俳句と我々の作った俳句を見分けられるだろうか?最近では画像生成AI「Midjourney」が、コンテストに入賞したというニュースが最近あった。日本でもAI俳句の実力は、「NHK俳句」に入賞するぐらいの実力があるだろう。
そうした俳句の一面を取って、俳句を第二芸術論とするのも良かろうが、俳句にはAIには出来ないもう一つの楽しみがある。それは個人が詠んだ俳句を個人が解釈してその違いを楽しむ句会での講評。例えば正岡子規の名句。
いくたびも雪の深さを尋ねけり 子規
この俳句は病床の子規が外の雪を気にして身内のものに尋ねたと子規を知る人は読むだろう。しかし、この俳句をスキー場の積雪を尋ねたと読んだ人がいた。そういう解釈も俳句が不完全だからこそ、作者の意図を離れて自由に読まれる。それが俳句の楽しさだという。自由に意見が交換される句会は場(座)で名句が誕生する瞬間であり、自由な発想を引き出す俳句の不完全さがあるからこそ楽しめるのだ。それは、先の芭蕉の名句。
古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉
この蛙が一匹なのか?複数なのか?読むのは自由なのである。虚子は、蛙の出てくる春をイメージして、連続する音だと考えた。それが俳句界では定説となっているかというとそうでもない。芭蕉のイメージから古池の「さび」の世界と水の音の「わび」の世界を想像(イメージ)すると一匹でも不思議はない。
実際に自由に発言できる句会では多用な読みが交わされ、それは作者が考えた以上の読み(ストーリー)があることが稀ではないという。そうした俳句の座としての名句。それは虚子が力を振るう選評の場とは違う自由さを求める俳句があるのだ。
坪内稔典の魅力は、そうした写生句よりもイメージを膨らませた言葉遊びの世界に俳句の広がりを考えているようだ。それは小学生から楽しめる句会の授業に現れている。AIが果たしてそのような句会を開けるだろうか?坪内稔典の俳句の面白さが現れた暦月の甘納豆俳句。その三月の句はおもしろさにおいて傑作だった。
三月の甘納豆のうふふふふ 坪内稔典
その句が有名になり、教科書にのり学生に支持され、ついに「甘納豆」は、春の季語にもなったのだ。その解説をした多田道太郎の評。
「三月の句の甘納豆は春の畳の上で数人の少女のように笑い転げているのである」 多田道太郎『お昼寝歳時記』
こうした共同作業としての読みが不完全な俳句を育てる。最初から完璧なれば、そこに批評を加える空きがないではないか?
第三章 現代俳句の世界
俳句の巨匠以外の息子や新興俳句の俳人、女性俳人の紹介。そこに様々な読み方がある。その多様性を知っているからこういう本をかけるのだろう。前衛俳句までを論じている俳句入門書は、あまりない(もっとも前衛俳人の書いた入門書は前衛俳句を論じているだろうが)。飯田龍太、森澄雄、高柳重信、金子兜太、細見綾子、藤田湘子、若い世代の俳句。
第4章 言葉の一二ヶ月
1月から12月までのエッセイ。俳句だけではなく言葉遊びと連想エッセイ風な。それは写生にこだわるのではなく、イメージとしての言葉の広がり、その虚構性に文学を見るというような。
第5章 俳句と遊ぶ
文学を学問としてよりも文芸として、だれでも参加でき楽しむ方法を地域活動や対談を通して語る。対談では相撲と俳句との関連性を論じて、力士名で俳句を作るということをやっている。真面目な人には顰蹙を買うような句だが、私は好きだ。
朝潮がどっと負けます曼珠沙華 坪内稔典
梅雨続く小錦が10人いるような 坪内稔典