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シン・現代詩レッスン125
四元康祐(翻訳)リルケ「芋虫」
『ダンテ、李白に会う 四元康祐翻訳集古典詩篇』からリルケ「芋虫」。リルケの詩から滑稽さを感じるとは思わなかったがリルケの象徴詩が筒井康隆の前衛小説のように読めるという。それはものに憑依して騙りだすからだろうか。昆虫とかまだわかりやすいが電線だったり(宮沢賢治風?)、墓場に通じる道であったり。それは人間以外のものが住む異世界なのだがリルケはそれが天界に通じていたりするのだろう(デンパ系と言われればそれまでだが)。
芋虫
あたまのもげたひとりの男
林檎のように熟して落ちた眼球
なのにまだ息をしている
ぼんぼりのように軀の奥に灯りをともして
いきなり芋虫状態の男の登場だがドゥルーズのベケット論『消尽するもの』のようでもある。そう言えばイスラエルにドゥルーズ教というキリスト教でも輪廻転生を信じる宗教(新プラトニズム)があると四元康祐『詩探しの旅』に書いてあった。「軀」の漢字は白川漢字学の影響なのだろうか。むくろを意味しているという。奥を光らせているのは王蟲(『風の谷のナウシカ』)だな。
雪原みたいにあてどない裸の胸を見つめていると
眼の奥がズキズキと疼いてくる
伸びたり縮んだりするおちんちんなら
笑ってみていられるのに
現詩は古代ギリシアの彫刻を題材にしているという。そこにロダン体験があるというのだが、それはおちんちんなのか?ロダンの腕と見立てるのならそういう欲望も感じられるがより直接的なおちんちんなのか?江戸川乱歩にも「芋虫」という作品があり、それはエドガー・アラン・ポーから受け継がれたものだが、そういう象徴性がリルケにも受け継がれているという。思ったより世界は繋がっていた。
手足のもげたひとりの男
傷口から透明な血潮が吹き出している
空中に虹を描いて
血しぶきから虹というのはアニメのようでもあり、エヴァンゲリオンだな。イメージだから。実際は緑の血かもしれないし、角のような触覚かもしれない(嫌な匂いを出すアゲハの幼虫とか)。
たとえ生皮を剥いでも
この肉塊はわたしを見つめ続けるだろう
あの世への道連れにするために
王蟲がナウシカに言う詩という感じにも受け取れるな。
王蟲
王蟲よ、静かにして
あなたの気持ちはわかるけど
それを受け入れるのが
天命なのよ
残念な気持ちはわかる
芋虫じゃなく蝶になりたかったのだと
でも許して、こんな世界にしたのは私たちだもの
嫌な毒を抑えて憎しみは苦しくするだけだから
せめてこの大空を飛んで見せるから
そうすれば世界はきみひとりじゃなく
私たちも同じ天命だと知る
ちょっと重すぎるから
ここに捨てていくけど
ごめんなさい、ひとりでは
どうにもならないもの