シン・短歌レッス143
「百人一首」
他のレッスンでもやり始めたのですが、そろそろ自分なりの「百人一首」を決めてどういう方向性に進もとうしているのか考えた方がいいと思いまして。やはり和歌は四季並びがいいのか?春から冬へと。それと好きな挽歌、恋歌はそれほどでもないかもしれないがお約束ということで。あと何かな?諧謔歌とか物語歌とかか。とりあえずこの辺で。
春10首ですか。梅に桜にその他の花に。
やはり小野小町から。ふるが「経る」と「降る」の掛詞。ながめが「眺め」と「長雨」ですね。掛詞の鮮やかなテクニックと小町ならではの色気と。
桜を歌ってもちょっと違う感じで業平のそういう天邪鬼的なところが好きです。小町と業平は、『古今集』の模範ですね。
NHK短歌
大森静佳が塔短歌会であり、彼女が「“ものがたり”の深みへ」というとき、どこまで物語を超えていくのかと思ったがちょっと違うようだった。それは多分「休日」のテーマである物語の人物像がハリウッドの映画のようであるのかと思うのだった。ゲストの声優がヘップバーンに憧れて、映画の中の彼女を演じる。そのときの憧れの対象としてのアン女王というブルジョアジーの憧れ。ハリウッド映画が消費社会経済の中で中の上を目指す生活スタイルの欲望を誘う、それこどが今のコピーライト的な短歌だった。
短歌の世界で「塔短歌会」について実際にその会員でもないので何も知らないのだが、出来るのなら「塔短歌会」には入らないだろうなというぐらいにメジャーなのである。一概にメジャーだから悪いということはないのだが、「塔短歌会」のそのスタイルがすでに「塔短歌会」短歌であるとイメージできてしまう。そこに川上未映子『黄色い家』の登場人物はいないのだ。
まずnoteに出てくる塔短歌会の短歌に感心しない。それはブルジョアジーの中のありふれた生活内の物語にしか過ぎないからだろうか?今回「休日」で大森静佳の選んだ短歌で中流以上の生活の「休日」という逆説、それは当たり前のように忙しい仕事があるという中での休日であり、定年者の休日(病者の休日はあったか、しかしそれは医者が休日とい贅沢さの在り方)はないのである。無職なら毎日が休日であり、休日と感じるには定職者でありその物語内にいる国民の姿なのかと思うのであった。
野獣だと思っていた息子が甘やかされて豚になっていた(虚構です)。
。短歌と日本人 テーマIII「表現」
岡井隆編『短歌と日本人VII 短歌の創造力と象徴性』▼テーマIII「表現」の座談会。学生運動が盛んな時代の歌人として、男では岸上大作が討ち死にするような短歌を詠んで、それは戦時の短歌と同じなのではないかという、共同体と個人の問題で、女性ならば道浦母都子の歌は、
共同体の歌から個人の恋愛の歌になっていく。そのへんの変遷が時代の流れとして、その時代がフェミニズムに重なって、次世代の林あまりの女うたになっていく。
この歌は当時ポルノ的とされていたのだが、フェミニズム短歌の現れとして女性の身体が母性であるという、これは詩人の伊藤比呂美も一見ポルノ的な詩を詠んでいるのだがよく読むと女性性のフェミニズムの詩だとわかる。つまり個人のことを歌っていたと思ったら時代的なことで、そういうのを時代と寝た歌というのだそうだが、その後に俵万智の女うた(むしろフェミニズムとは逆行している)が出てきたのである。
俵万智は学生運動が挫折しての反動の保守化の流れなのだが、男たちの短歌は挫折の歌だったという、これも敗戦時と同じ流れのようで、男歌はむしろ挫折した方が味わい深いとか。そういう意味で女が全面に出る歌が俵万智が方向付けたということのようだ。そこの批評が出来ていないので、俵万智がやたらと勝ち組のようにもてはやされているのだった。
テーマIV「創造」〈報告・島田修三,栗木京子〉「奥村晃作,穂村弘、岡井隆」座談会
短歌の過渡期時代で、短歌が今の俳句のように若手に広がらないということだった。ただそれは結社によるもので、ちょうどこの頃にジャーナリズムの短歌として俵万智がスターになることで変化していったのだと思う。そのことを踏まえてみると旧派の人(島田修三)は時代を読みきれてなかったと思ってしまう。島田修造vs.穂村弘という感じか、確かにそれから短歌は和歌のように個人よりも共同体の歌になっていくのだが、短歌が共同体からの自我の確立ということだというのが、いつの間にか和歌的になってしまったんだな。「悲歌合唱」という抒情詩の系譜があるのだが、その部分で穂村弘はクールであって、たとえばそうした境涯歌的なものよりも言葉の感覚として新しさを捉えているようだった。だから「ただごと歌」にも存在を見出すという凡庸さはただごとでもないという蓮實重彦を読んでいるからポストモダンなのだと思う。いまだにそういう批評性を受け入れられない島田修造が餓鬼の短歌とか「ただこと歌」としか読めない違いはあると思う。今の短歌では穂村弘の方が圧倒的に正論に思える。「時代と寝た女」という短歌の在り方(女性短歌中心になっていく)?がそういう言葉が当時言われたのかと興味を持った。俵万智なんかがそうなのだと思うが、ただ俵万智を捉え残っていると思ったのは、女性短歌の見方として、巫女的なものと母性的な熟女しか存在せず、その中間の魔女的な歌人がいないということだったが、俵万智がまさに魔女的な歌人だったのだと今ではい思う。俵万智を批評できなかったのが今の短歌に通じるのだと思う。
俵万智『愛する源氏物語』
以上のことは俵万智の『源氏物語』の和歌に対する共感を見ると彼女のま女性がよく分かると思う。保守反動なのだが、それを受け入れてしまうジャーナリズムが『源氏物語』の俵万智読みを支持しているのだった。
「和歌は心の結晶」
男はさすらい人でそれを待つ女がいて、鏡(虚構)の世界では番っているという歌だ。それを特別に愛唱するの俵万智なのだった。
まあ男は名うてのプレーボーイだから、そんな彼と虚構の世界でも一緒ならばと騙されるアホな女なのか?
「あなたのために」
死地に実家に里送りになる桐壺の更衣に光源氏が贈った歌だが、通常贈答歌は男からが普通であり、さらにこの歌の返歌は載っていていないという。もっともこれには反論があり、更衣が亡くなったあとの独泳がそれだと言う。
つまり更衣のまぼろしを探してでも会いたいと思わせたのだ。それは更衣の歌が「あなたのために」という意味を含んでいるからである。つまりこれは呪いの言葉で、実際に生きることは叶わなかったのだ。それならあの世に引きずり込んでもということなのは、更衣の後の文章「ホントウニコノヨウニオモワセテイタダケルナラ」と続くとある。恐ろしい女である。
「雨夜の品定め」
夕顔は貴族階級の女性ではなく一般ピープルだという。そこに男たちの品定め的な視線があり(例えばミス・キャンパス的な)上流階級の男をゲットして結婚したら目出度いということだが、夕顔は愛人のまま、世間のもののけに呪い殺されるのだった。そのストーリーを夢物語としてみて物語のヒロインになるのだった。
光源氏が垣間見た夕顔を逆転させて夕顔が光源氏を垣間見るのだが、それはゲットした生活のあとで成り立つ歌だった。実際には夕顔は死んでしまうのだが、そういうことを微塵も感じさせない。
逃げる女
空蝉の歌は伊勢の和歌の引用であり、それをちゃっかり拝借しているのだが、その時の物語の気持ちは空蝉のものであり、引歌以上に歌い手が感情移入させているのだ。これは林あまりが作詞家でもあっても「夜桜お七」は坂本冬美の歌であり、そのような物語性が出来ているからである。
そうして伊勢は置き去りにされて空蝉の歌になったのだし、俵万智がそれを解釈することで俵万智の歌となっていく(カラオケ化か)
末摘花のボキャ貧
末摘花のこの歌はけっしてボキャ貧なのではなく、「からころも」から掛詞や縁語などを繰り出しているのだが、それが借り物(からころも)だから駄目だしなのだった。「かくぞ」を「湖月抄」では「このように」と重要な言葉とされているのだが、俵万智は単なる地合わせだという。字合わせだから何だというのだ、そんなのしょっちゅうアマチュアの歌人ならやっているではないか(懸命に和歌を作ろうとする努力の足跡なのだ)?それをボキャ貧とひと言で片付けてしまう権威性が俵万智にはあると思う。
ああ、からころも
俵万智は末摘花よりも源氏の歌で大笑いしているのだ。それはほとんど末摘花に対する虐めである(まあ、それで大笑いしてしまう人も多いのだ)。俵万智の権威性はこういうところにもあると思う。
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