シン・短歌レッスン18
公園の河津桜定点観測。まだ満開ではないけど。河津桜も幸福時代を思い出してしまって、あまり好きじゃないんだが。伊豆の旅館の閑散期というので安い招待券が来るのだったが、温水プールとか貸し切り状態で、なんか冷え切っていた頃だったな。河津桜で一句。中七だな。
たいして意味がなかった。チェリー酒だったんだ。その旅館で食前酒として出していたのは。もう一つだな。
下五が字余り、梅干しはいらんかな。
生意気な2月という詩を考えていたんだ。主体を梅干し婆さんにすればいいのか?
葛原妙子短歌
「幻視の女王」葛原妙子。川野里子『幻想の重量』という本から。重そうだな。軽いほうがいいんだが。
「ゆうふぐれの水」を赤ワインとして読んだのだが、「的となるべき」は『朱霊』で示されている中国の『三国志』の将軍を示しているのだが、短歌そのものかもしれない。伝統和歌ということか?解説を読む。
穴の空いたフライパンから覗いたシンクの水だったんだ。そこが葛原妙子の「幻視の女王」たるところだった。ただその意味は次の言葉に集約されている。
キッチンドリンカーであっても不思議はない。
模範10首
山田航『桜前線開架宣言』は現代短歌のアンソロジーなのだが、「開花宣言」が「開架宣言」になっている繋ぐという意味なのが面白い。1970年代の現代短歌の革新性。桜はまだ「開花」してないのか?今日は気になる岡崎裕美子の「性愛短歌」。
「したあと」は穂村弘の短歌本で岡崎裕美子の短歌で最初に衝撃をうけた歌だった。もろセックスを歌っていたがこれは今読むと中世の短歌と同じで「きぬぎぬのうた」だった。それを女の側から歌うのが斬新だったのか?赤紙もイメージとしては義務感みたいなもの。その上で主体の身体性を物化していたのが印象的だった。
「広げてごらん」を羽根に喩えるのはファンタジーだけど現実は生臭いものだ。
「無印良品」の下の句の「堤」は西武グループの社長のことだったんだ。今ではこういう反CM的な歌を読む人いるかな?
浴槽の歌も即物的にセックスするのと短歌にするのが反射的というかよほど感度がいい人なのか(短歌脳の)。
電車は近代文学の象徴だがあれの象徴でもあるのかな。
「絶え間なく」と悲痛の声だ。
産む身体と快楽の身体とも思えない。
与謝野晶子の「やわ肌」の歌との違い性を考えてしまう。
この歌はロマンチックラブなのだろうか?愛なんてというアンチだろうな。
結末が怖すぎる。
映画短歌
今日の映画は、『未来惑星ザルドス』。岡崎裕美子に対抗できるのか?